←↑→ とんでも?仮説(4) 清和源氏は実は陽成天皇の子孫

この仮説に関しては、もう「とんでも」ではなくなりつつあるようです。
歴史学者の中でもかなり多くの人が支持しているもようです。むしろこちら
のほうが定説になりつつあるかも知れません。

清和源氏の系図というのは一般に下記のように記されています。

 清和天皇―貞純親王―源経基―源満仲―源頼信―源頼義―源義家

ところが星野恒は明治33年、石清水八幡宮に上記系図の源頼信が納めた文書
を発見し、そこに次のような記述があることを指摘しました。

 『先祖の本系を明ら奉れば、大菩薩の聖体は忝なくも某が二十二世の氏祖
  なり。先人は新発、其の先は経基、其の先は元平親王、其の先は陽成天皇、
  其の先は清和天皇、其の先は文徳天皇、其の先は仁明天皇、其の先は嵯峨
  天皇(以下略)』

要するに頼信は自分の祖先を辿っていくとやがて応神天皇に行き当たるので
八幡神は自分たち源氏の祖先神である、ということを述べているわけです。
おそらくこれが源氏が八幡神を深く信仰した根拠なのでしょう。上記で新発
というのは源満仲の別名のようですが、問題はその先で、系図が通説と異な
っています。

 清和天皇―陽成天皇―元平親王―源経基―源満仲―源頼信―源頼義―源義家

もしこれが真実であるとすれば、なぜ系図の改竄が行われたのかということ
が問題になりますが、大方の見方ではやはり頼朝が色々と問題のある陽成帝
の子孫と名乗ることを恥ずかしく思って、その一代前の清和帝の子孫と名乗
ったのではないか、ということのようです。ではなぜ陽成帝の子孫と名乗る
のが恥ずかしかったかというと、陽成天皇の廃位問題と関わってきます。

陽成天皇は清和天皇と藤原高子との間の子です。高子は伊勢物語で在原業平
が「白玉か何ぞと人の問いし時....」の歌の書かれた章で盗み出した姫です。
事件後も、業平は高子の推挙によって昇進を重ねており、引き裂かれた後の
二人の思いが変わっていないことは「千早振る神代も聞かず龍田川....」の
歌からも推察されます。平安時代の性に対するおおらかさが伺えるのですが、
ここで陽成天皇も実は業平の子供だったのではないかという説もあります。
しかしさすがのプレイボーイの業平も、天皇の后になった人にまで手を出し
たりはしないと思いますので、この線はやはり無いでしょう。

一般に言われているのは陽成天皇は腕力が強く臣下に度々暴力を振るってお
り、元慶7年にはとうとう源益を殴り殺してしまうという事件も起こしたため
翌年廃位に追い込まれたとするものです。しかしこの説にも反論があり、そ
ういう事故はあったかも知れないが、むしろ頭のいい人であった為、天皇が
17歳にもなってなかなか思うようにコントロールできなくなってきた藤原基
経のイライラが募り、ついに退位に追い込まれたのではないかと、純粋に
基経の都合であるという意見もあります。そしてむしろ異常な性格だったの
は陽成天皇より父の清和天皇の方ではなかろうかとの説もあります。

しかしその付近はもう半ば闇の中です。




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