海の民の物語(4)フェニキア人の活動(2)

↑
→

フェニキア人は元々中東のカナン地方の出身で、ビブロスやティルスなどが 栄えていた訳ですが、BC815年に建設された「地中海の女王」北アフリカの カルタゴはひじょうに大きく栄えました。

しかしフェニキア人たちが地中海をほぼ独占していたのは実はその頃までで した。ちょうどカルタゴが建設された頃、ギリシャで古代のルネッサンスが 起こり、ギリシャ人たちが再び盛んに活動するようになって、彼らも海に 出てきます。そしてBC4世紀になるとアレキサンダー大王の遠征(BC334-323) をきっかけにギリシャから中東にかけて一大帝国が作られ、ヘレニズム時代 になって、フェニキア人の立場はどうしても従的なものになってきます。

一方BC6世紀頃からはイタリア半島のローマが栄え始め、近隣国カルタゴとは どうしても勢力圏がぶつかり始めます。当初は東隣のギリシャの方が大きく バランスがとれていましたが、ヘレニズム帝国の誕生でギリシャが消えた頃 ローマはイタリア半島の統一を完了(BC272)。ヘレニズムに呑み込まれなかっ た西のいわば辺境の地が独自の力を持つようになります。

そして起きたのがポエニ戦争でした。

第一次ポエニ戦争(BC264-241)ではローマとカルタゴの勢力の境界線であった シチリアの権利をめぐって両者が衝突しました。

事の発端はローマ人のシラクサ(シチリア東部の国)の傭兵・マメルチニが解雇 されたのを機に島の北部を占領して自分の国を作ろうとしたことによります。
シラクサのヒロエ王はただちに討伐軍を組織してこれを鎮圧しようとしますが、 マメルチニは母国ローマに助けを求めました。

するとヒロエ王の方もカルタゴに助けを求めるのですが、カルタゴはすぐに 動いてくれず、結局シラクサはローマ軍に占領されてしまいました。ヒロエ王 はここでカルタゴを見限ってしまい以後ローマ派に転じます。そして今までは カルタゴの海軍の力を恐れてその勢いの前に従属していたローマの市民たちが これを機に「カルタゴ恐れるに足らず」と考えるようになり、この海域の制海 権をかけて両者は激突しました。しかし本当に、カルタゴは連敗に次ぐ連敗、 ローマは連戦連勝を重ねました。

この時取ったローマの戦法は要するに後の海兵隊の戦法です。

初期の段階ではカルタゴの海軍はローマ海軍の船の櫓を折って航行不能にして 拿捕したり、船に穴を空けて沈めたりして倒し、ローマを圧倒していました。
しかし、これではやはり勝てぬと考えたローマは、相手の船に強硬接近して舟板 を渡し乗り込んで、相手の船の中で暴れ回る戦法を発案しました。

この方法では船と船の戦いではなく人と人との戦いになるので、いったん乗り 込んでしまえば操船技術は関係ありません。この戦法でローマはBC260のミレ沖 海戦、BC256のエクノモス海戦に連勝、ここでいったん和平の道が探られますが 交渉は決裂。カルタゴはギリシャから強力な傭兵を導入、以後しばらく戦況は 一進一退の状況に陥ります。

しかしBC241のエガテス沖海戦でローマ軍がカルタゴ軍に勝利したことでさすが に長期戦で疲労していたカルタゴはローマに降伏。シチリアはローマの属領と なり、カルタゴはローマに多額の賠償金を支払うことになります。そしてこの 戦争の結果を見た隣のサルディニアもカルタゴに離反し、ローマ派となります。


←↑→
(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから