トラにまつわる人/棋聖虎次郎

↑

「フーテンの寅さん」は「寅次郎」でしたが、字を換えて「虎次郎」と いえば、桑原虎次郎。日本の囲碁史にその輝かしい名前を刻む最強の棋士 「本因坊秀策」の幼名です。

文政12年(1829)5月5日(丑年巳月戌日)、瀬戸内海の島・因島の生まれ。
碁は母のカメから習ったもので、5歳の時に尾道の豪商橋本吉兵衛に才を 見出され、7歳の時に三原城主・浅野忠敬と対局して棋力を認められます。
9歳の時にその浅野公の勧めで江戸に上り、本因坊丈和(本因坊12世)の 弟子となりますが、彼の碁を見た丈和は「150年来の天才だ!」と絶賛し たといいます。(150年前というのは、つまり近代囲碁の確立者である 本因坊道策以来ということ)

11歳で初段、15歳で四段となり、数々の名局を残します。中でも1846年に 井上幻庵因碩(井上家11世)との対局として記譜が残る「耳赤の一局」は 名局として有名です。この時、幻庵因碩は八段、秀策が四段だったので 本来ならハンディキャップ付きの対局となるところを、少し打ちかけた 所で秀策の実力に驚き、急遽ハンディ無しの対局に変更して打ち直したと いういわく付きの対局でした。そしてこの対局中盤で秀策が放った1手に 幻庵因碩はショックを受け、みるみる顔が赤く染まり耳まで赤くなったと いうことから「耳赤の一局」の名前があります。(結果は先手秀策の2目勝)

やがて本因坊家の跡目として推薦されるのですが、彼は当時まだ浅野家の 家臣という立場で浅野家から俸給を受け取っていたため、浅野家に義理 立てして、かたくなにそれを拒み続けていました。

しかし1847年に師の丈和、その後継者の丈策が相次いで亡くなったのを うけ、1848年ついに本因坊14世秀和の跡目となることを受諾。丈和の娘の 花と結婚しました。このあと御城碁に出仕するようになりますが、この 御城碁で19戦19勝という記録を打ち立てます。

現代の囲碁では先手が有利であるとして後手に6目半のハンディが与え られていますが、当時はそのようなハンディは無く、先手の黒が有利で した。ある時、御城碁を終えて城を降りて来た秀策にある人が「結果は どうでしたか?」と尋ねると秀策は「私が黒でしたよ」とだけ答えた という逸話が残っています。

秀策が黒を持って負ける訳がない、ということです。

将来を期待されていた秀策でしたが、文久2年(1862)江戸でコレラが大流行。
この際、秀策は患者の救護のために飛び回り、その際に自らも感染して 急逝してしまいます。 同年8月10日没。享年34。

彼に期待していた秀和は悲嘆に暮れ、その後本因坊家の跡目を巡って混乱 が続く中で囲碁界は明治維新を迎えることになります。幕府からの経済的な 支援を失った本因坊秀和は一時期は倉庫暮らしまで強いられます。そして やがて明治半ばに秀和の子・本因坊秀栄が「囲碁奨励会」を設立するまで、 囲碁は冬の時代でした。

(2010-01-07)


↑ Dropped down from daily DANCE.
(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから