子子子子子子.....

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このエピソードは高校の教科書にもよく載っているのでご存じのかたも多いでしょう。

「子子子子子子子子子子子子」

というのを何と読むか、という問題です。答えは

「ネコのコ、コネコ、シシのコ、コジシ(猫の子、子猫、獅子の子、子獅子)」

「子」という字を「ね」「こ」「し」という3通りに読み分けているのがミソです。

問題を出したのは嵯峨天皇(さがてんのう,786-842,在位809-823)。平安京を首都として確定させた大天皇で、答えたのは小野篁(おののたかむら,802-852)で、嵯峨天皇お気に入りの廷臣。

などと書くと、クイズ大会でもしているようで、とっても楽しい雰囲気のように思うかも知れませんが、実際はこれはかなりシビアな状況です。そのためには当時の時代背景から説明しなければなりません。

平安京を作ったのは桓武天皇ですが、すんなりと作ることが出来た訳ではありません。天皇は旧勢力がたくさんたむろしている平城京を捨て、最初長岡に新しい都(長岡京)を作ろうとしましたが、工事はなかなか進まず、流行病が発生したり、更には工事責任者の藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺される事態となります。天皇は弟の早良親王を暗殺事件の黒幕として処断。早良親王は自殺しますが、それでも工事は難航し、度々水害にも襲われ、その災害が早良親王の祟りだという噂まで流される始末。

そこで桓武天皇は大決断を下し、長岡京の建設を中断して、新しい都「平安京」を作る宣言して、まだ都が全然建設されていないうちにさっさと自分だけ平安京に引っ越してしまいました(794年10月)。ここから平安時代が始まるわけです。

桓武天皇の後を継いだのは息子の平城天皇ですが、病弱でわずか3年の在位で弟の嵯峨天皇に譲位しました。しかしその後平城天皇は藤原薬子(ふじわらのくすこ)らとともに平城京に移り、やがて上皇の名前でここを都に戻すことを宣言してしまいました。これに対して嵯峨天皇は断固たる処置を取ります。薬子の一族を拘束し、東北地方の平定に功のあった坂上田村麻呂を指揮官に任命して、軍事的に制圧。薬子は自殺し、上皇も出家して、結局クーデターは数日で終結しました。

その後、嵯峨天皇を支持した藤原北家が力を付けてくるわけですが、嵯峨天皇の治世というのは、基本的には安定していたものの、旧勢力の残滓が密かに存在して、隙あらばと様子を見ていた時代でもありました。そんな時にその事件は起きたのです。

内裏に誰かが「無悪善」と書かれた札を立てました。誰が立てたのかも分かりませんが、何と読むのかも分かりません。天皇が(お気に入りの)小野篁に「読めるか?」と尋ねると篁は「読めますが差し障りがあります」と答えます。すると天皇が「いいから読め」というので篁は「さが無くてよからん、と読むのでしょう。帝をのろう文と思われます」と答えました。

すると天皇は「誰も読めなかった文章がお前には読めたというのは、実はお前が書いたのではあるまいな?」と聞きます。ごく自然な疑問です。他にも実はそうむ読んだ人はいたかも知れませんが、変に疑われることを恐れて読めない振りをしていたのでしょう。しかし篁は読んでしまった。帝も信頼している篁がそんなことするはずないとは思っているでしょうが、つい自然な反応が出てしまった。ここは篁は何とか切り抜けなければ大逆の罪になります。

しかしここでやはり変なことを言ってしまったと反省したのか嵯峨天皇が「お前は書いてあるものなら何でも読めるか」とおっしゃいます。すると篁は「はい。何でも読みます」と答えるので、天皇は「だったらこれを読め」といって

子子子子子子子子子子子子

という字を書いてみせ、篁がこれを冒頭の通り読んで見せて、天皇も笑って済ませたのでした。ふたりの信頼関係を示すエピソードです。

【宇治拾遺物語・四十九】

今は昔小野篁といふ人おはしけり。嵯峨の帝の御時に内裏に札を立てたりけるに無悪善と書きたりけり。帝、篁に「よめ」と仰せられたりければ「読みは読み候ひなん。されど恐にて候へば、え申し候はじ」と奏しければ、「ただ申せ」と度々仰せられければ、「さがなくてよからんと申して候ぞ。されば君をのろひ参らせて候なり」と申しければ、「おのれ離なちては、誰か書かん」と仰られければ、「さればこそ申し候はじとは申て候つれ」と申すに、帝「さて、何も書きたらん物は、読みてんや」と仰せられければ、「何にても読み候ひなん」と申ければ、片假名のねもじを十二書かせて給て、「読め」と仰せられければ、「ねこの子のこねこ、ししの子の子じし」と読みたりければ、帝ほほゑませ給て、事無くてやみにけり。

なお宇治拾遺物語(1220頃)では天皇が読ませた文字列は「子子子子子子子子子子子子」ですが、江談抄(1106頃)では「一伏三仰不来待書暗降雨恋筒寝」になっています。こちらの正解は「月夜には来ぬ君待たるかき曇り雨も降らなん恋つつも寝ん」でした。

「一伏三仰」をどうして「月夜」と読めるのかですが、これは昔のサイコロ遊びの用語です。今ではサイコロは正六面体ですが、昔は均質でどの目も均等な確率で出るような正六面体を製造するのは大変だったので、一応六面体のサイコロも存在はしたものの、むしろ木の札を何枚か振って、表の出た枚数でゲーム(双六など)をするというのが多かったようです。この時のサイコロの目の読み方が

四伏ソ あるいは ミョ
三伏一向ト あるいは ツク
二伏二向
一伏三向コロ
四向ユート

となっていて、これを利用して万葉集に下記のような句があります。

1874 春霞田菜引今日之暮三伏一向夜不穢照良武高松之野尓
  春がすみ、たなびく今日の暮月夜、きよく照るらむ高松の野に

2988 梓弓末中一伏三起不通有之君者會奴嗟羽将息
  梓弓、末の中頃たゆめりし、君には会ひぬ嘆きはやめむ

「三伏一向」を「つく」、「一伏三起」を「ころ」と読ませています。
しかし「不穢」で「きよく」と読むのもまるでクイズです。「不通有」を「たゆめり」と読むのも意訳っぽくて、万葉集に取り組んできた先人の苦労が伺える。

さて嵯峨天皇の問題は「一伏三仰」ですから「ころ」と読みそうなのですが、篁は「つくよ」と読んじゃった。「つく」は「三伏一向」なのですが、夜なら反転して「一伏三向」になるというなぞなぞなのでしょう。これは。

にしても、江談抄のほうが古いですから、こちらが本当なのかも知れませんが、これは当時の人ならちょっと頭をひねれば読めそうな気がします。この「一伏三仰」さえクリアできれば、その後はそう難しくない。むしろ「子子子子子子子子子子子子」のほうが、「え〜!?」という感じで、そんなとんでもないものを読んじゃった篁なら、確かに何でも読んじゃうかもと周囲の人たちに思わせる効果が強いという気がします。(嵯峨天皇としてもここで篁に対する疑いを晴らしておきたい)

ですから、宇治拾遺のほうのパターンがやはり面白いですね。

なお、この話には、以前どこかにも書きましたが、実は根本的な問題点があります。

それは「嵯峨天皇」というのは、この天皇が亡くなったあとで付けられた諡号ですから、嵯峨天皇が生きている時に「さが」で、天皇のことを意味したかについては、大いに疑問があります。


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宇治拾遺物語 (角川ソフィア文庫) ↑
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