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翌12月15日(金)曇り。

休暇村を出て朝一番のバス611の西戸崎駅前行きに乗り、島の南端の志賀島
バス停で降ります。目の前の鳥居をくぐってから歩いて10分(内5分は境内)
で志賀海神社の表津宮。ここで朝日を拝もうという魂胆です。

曇っているので完全ではありませんが、雲の間に少しは見えるだろうという
期待での行動。志賀海神社は全国の海神社(わたつみじんじゃ)の総本社です。
海神は綿津見神とも書き、長野県の安曇野開拓などでも知られる安曇一族が
信奉した神。底津綿津見神・中津綿津見神・上津綿津見神の三柱の神。住吉
の神といつも対にして語られる海上交通の神で、両者を同一視する人も時々
います。また「わたつみ」とは山の神様「やまつみ(山祇)」神と対の名前で
あるというのもよく指摘されるところです。

この神社は最初は勝馬の地に三柱の神に合わせて辺津宮・中津宮・表津宮と
そろっていたらしいのですが、のちにこの表津宮だけ島の反対側のこの朝日
が拝める位置に移転したようです。今回中津宮は失礼しています。また一時
はこの志賀島全体に摂社が370社ほどあったようですが、現在は表津宮の境内
に惣社八百萬社としてまとめられています。境内には他にも十社ほどの摂社
があります。

なおこの島は日本史の教科書の先頭付近に必ず載っている「漢委奴国王」の
金印が出土したところでもあります。その地は現在金印公園になっています。
恐らく昔そこに那国の王の館か迎賓館的なものがあったのでしょう。という
ことは安曇一族と那国は深い関わりを持っているという仮説が成立します。
(安曇一族自身が那国の末裔なのか、安曇一族が大和朝廷の命により那国を
倒してそこに入ったのか)

金印の実物は昔は中州の煉瓦造りの歴史資料館(現赤煉瓦文化館,東京駅を
設計した辰野金吾の作品のひとつ)にあったのですが、その後1979年に福岡
市美術館ができるとそちらに移され、1990年に福岡市博物館ができると更に
そちらに移されました。金印発見の件はこちらをご覧下さい。
  http://homepage1.nifty.com/anecs/social/seso/nihon-edo/kinin.htm

さて7時すぎ、雲のまにまに朝日はなんとか拝めました。私は長い参道を降
りて更に数百m歩いてバス停へ。725の西戸崎駅前行きに乗り10分で終点。
748の宇美行きにのり、811香椎着。

香椎宮(かしいぐう)にお参りします。ここ福岡市東区香椎の地は昔神功皇后
(じんぐうこうごう)が夫の仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)と共に大和朝廷と
対立する九州の勢力と戦うために仮宮を作って数年間滞在していた地です。
(斉明天皇と中大兄皇子が滞在したのは同市南区高宮)

しかし戦況は好転せず、神功皇后はその九州勢力を支援していると思われる
朝鮮の勢力を叩くため朝鮮半島まで遠征しようと主張しますが、天皇はそれ
に反対。ところがその後天皇が急死したため、皇后は武内宿禰(たけうちの
すくね)と共に兵を率いて朝鮮に遠征。ここに日本の拠点(任那)を築いて、
朝鮮側の九州への干渉を牽制することに成功しました。日本はこの後白村江
(はくすきのえ)の戦いで大敗するまで約300年間、ここから逆に朝鮮に干渉
するようになります。

香椎宮はこの時の仲哀天皇の廟が発展したものとみられます。伝説によれば
はじめ天皇の棺を作り、それを椎の木に立てかけておいた所、そこからこう
ばしい香りがしたため「香椎」の名が出たとも。また遠征の時に皇后の鎧に
挿しておいた杉の枝を帰国後地面にさしたら大きな木になったといわれ、こ
れが境内の綾杉であるといわれます。

駅を降りて左手に数百メートル歩いた所、左手踏切を渡って1km参道を歩くと
やっと境内になります。境内もまた広く、何度も石段を登ってやっと拝殿に
たどり付きます。お参りしたあと少し裏手に行って御神水をいただきました。
ここは近年の名水ブームで取りにくる人たちが増えすぎて、困っているよう
です。自分で飲める程度にしておきたいものです。

帰りは丘の麓をグルリと回って裏道(この道は迷いやすいので慣れてない人
はちゃんと参道に戻った方が無難です)を通って香椎駅方面へ。

香椎駅940の宇美行きに乗り1011着。宇美八幡にお参りします。この宇美とい
うのは、神功皇后が朝鮮から戻ってきてから皇子(応神天皇)を産み落とし
た地です。皇子を産んだから「うみ」という訳です。神功皇后は遠征中に
子供が産まれそうになりましたが帯をしっかり巻いて「国に帰るまで産まれ
るな」と中の子供に言い聞かせ、戦況が一段落したら一足先に帰国。この地
で子供を産んだといいます。

このため応神天皇はお腹に入っていた期間が普通の子より長く、これが大和
に残っていた皇子たちに「それは仲哀天皇の子ではないのではないか」とい
う疑念を抱かせることになり、皇后が応神天皇を抱いて帰京すると、入京を
阻止しようとする皇子たちの間で戦いが起きてしまいます。しかしそれを
武内宿禰の奇策で乗り切り、皇子は無事天皇として即位できたのです。

この宇美八幡の境内には大きな御神木があります。樹齢1500〜1600年ほどあ
りそうにも見え、あるいは応神天皇が産まれた時に植えられた木なのかも知
れません。なお、神功皇后はそもそも天皇家の血を引いていますので(日子
坐の子孫)別に応神天皇の父が誰であろうと、応神天皇の正統性は揺らぎま
せん。しかし何と行っても戦いの中で生まれた天皇故に後世武士の守護神と
して崇められたのでしょう。

お参りして駅に戻り、1106の列車に乗って1120長者原着。1132の篠栗線に乗
り換え、1156筑前大分着。

大分(だいぶ)八幡宮にお参りします。九州の五所八幡のひとつです。残りの
4つにもこの後の旅でお参りしていくことになると思います。五所八幡とい
うのは、天慶の大乱(藤原純友の乱・平将門の乱)の平定を願って、九州の
五箇所−筑前・肥前・肥後・薩摩・大隈に石清水八幡の分霊を勧請して建立
されたと伝えられる古い八幡神社です。

この大分八幡と先程の宇美八幡は今日の午後行く筥崎宮と関わりのある神社
です。それについてはまた筥崎宮のところで述べます。

お参りしてから1321の篠栗線に乗り1400吉塚着。この付近の線路の走り方は
複雑です。
               志賀島……西戸崎 宮地岳
                     | /   宗像大社
 至唐津―天神―中州川端―箱崎宮前―貝塚―和白    :
         |           |     :
        博多――吉塚―箱崎―――香椎――――東郷
       /     \     /
     至久留米     \   / 
               長者原
               / \
              宇美  筑前大分

JRと西鉄と市営地下鉄が絡んでいます。大阪や東京の複雑さには遠く及びま
せんが、九州の地方から出てきた人には訳の分からない世界のよう。これに
以前は吉塚から長者原方面を通らずに直接宇美に至り筑前勝田まで行く勝田
線というのがあったのですが、廃止されました。この付近は炭坑がたくさん
あったので、その為に鉄道が発達した経緯があります。また現在博多−姪浜
間のJRが廃止されてしまった為、博多から唐津に行くには姪浜まで地下鉄で
行き、その後筑肥線になります。(直通電車はありますが)なお上記JRの
箱崎駅は筥崎宮の裏側すぐにあり、地下鉄の箱崎宮前は筥崎宮の正面にあり
ます。今回はこのうち箱崎宮前の方を使うことになります。

JR吉塚駅を降りた後、すぐ近くの千代の森神社にお参りします。こんもりと
した森の中にある、いい感じのお稲荷さんです。お祭りの時などに来ると、
おキツネさんのおみくじを頂くことができます。拝殿でお参りした後、右手
摂社の天神様にもお参りしてから裏側東公園へ。

ここは元県庁が建っていた土地で、中央ほどに亀山上皇像、東側に日蓮聖人
像がありますが、西側に十日戎神社があります。亀山上皇像の意味について
は後に筥崎宮の所で触れます。まず十日戎神社にお参りします。

1月10日のお祭りで有名なところで、戎の祭りの人出の多さでは日本でも
十指に入るものでしょう。普段はそんなにお参りの人はありませんが、公園
の中にありますので、いつも多くの人がそばを通っています。

お参りしたあと東公園を東に抜けて、少し道を入り三隈神社にお参りします。
住宅街の中に突然ある神社にしては境内は広い方です。左側に三島神社、右
側に稲荷神社があって三殿の構成、また入口近くにもうひとつ摂社がありま
す。千代の森さんにしてもこの三隈さんにしても、空気のいいところです。

ここから地図を確認しながら複雑に路地を歩き、翁別神社に至ります。ここ
は安倍晴明ゆかりの地のひとつとしてよく紹介されているのですが、ここの
神社自体には特にそういう説明は掲示されていません。団地の中にあって、
半ば忘れられている感じの神社です。しかし空気は悪くありません。恐らく
団地の子供たちがここでたくさん遊んでくれているからでしょう。

ここから少し歩けば筥崎宮の参道の途中に出ます。筥崎宮の一の鳥居は海の
そばにあり、そこから拝殿までの参道を何本も大きな道が交差しています。

筥崎宮(はこざきぐう)は日本三大八幡のひとつです。(あと2つは宇佐八幡
と石清水八幡)お正月の玉取祭(たませせり)と、秋の放生会が有名。放生会
で売り出される古式のチャンポン(長崎風に言えばビードロ)も人気があり
毎年限定個数で頒布されるのを求めて早朝から長蛇の列ができます。一時期
途絶えていたものを九大の先生が古い文書を研究して復活させたものです。

私は学生の頃、箱崎駅で降りてこの神社の境内を通り抜けて大学に通ってい
ました。ところがこの学生の頃は神社には興味がなかったため、実はこの宮
に初めてお参りしたのは、学校を出て数年たってからでした。

さて、筥崎宮に入っていきますと最初『敵国降伏』という額があって、ドキ
っとします。戦後進駐してきたアメリカ軍はこれを見て即「降ろせ」と言い
ましたが、実はこの「敵国」とはモンゴルのこと。元寇の折りに亀山上皇が
書いたもので、筥崎宮はこの蒙古襲来の折りに霊験があったということから
日本三大八幡に数えられるようになったといわれています。なお現在かかっ
ている額はその上皇の筆によるものの拡大コピーです。

この蒙古襲来の時、1回目の文永の役(1274)の際は博多に蒙古軍が上陸し、
この付近まで蹂躙された為、筥崎宮の神官はご神体を持って、一時宇美八幡
に避難していました。「敵国降伏」の書はその翌年建治元年(1275)に納めら
れたものです。その甲斐あって2回目の弘安の役(1281)では、博多上陸前に
蒙古軍は松浦の鷹島沖に集結したところに台風が直撃し壊滅。これが神風と
呼ばれるもので、恐らく数十年に一度クラスの大型台風が日本を救いました。

東公園に立っている亀山上皇の像はこれを記念して作られたもの(山崎朝雲
作,1904)で、上皇自身が八幡の神とともに敵国からの侵略を監視している
のです。戦後アメリカ軍はそういう経緯を聞き、今度は亀山上皇の像を倒そ
うとしましたが、これは博多商人たちの熱心な働きかけと恐らくある種の裏
工作により、無事守ることができました。

拝殿でお参りしてから脇を通り抜けて裏手に回ります。東側と西側にそれぞ
れ末社の並びがあり、各々お参りしていきます。

なお、筥崎宮が建てられたのは延喜21年(921)です。この年、太宰府の観世音
寺の巫女の託宣により、お昼ころ行った大分八幡宮の分霊を勧請して建てら
れました。つまり八幡神の系統は 宇佐→石清水→大分→筥崎 ということ
になります。観世音寺というのは昔僧の資格を与える儀式がおこなわれる寺
が日本に三つしかなかった時代の、その内のひとつがあった所です。弘法大師
も中国から帰ってからしばらく、この寺で資料の整理作業をしていました。
太宰府政庁と太宰府天満宮のちょうど中間点付近にあり、現在は寺域は狭く
なっていますが宝物館に巨大な仏像が何体もお祭りしてあります。

なお「はこざき」の名前については元々、応神天皇が宇美で生まれた時、そ
の胞衣を箱に入れて、この地に埋めたからだといわれています。つまりそう
いう由緒の地である故に、観世音寺の巫女はそこに応神天皇を御祭神とする
八幡神社をきちんと建てるよう言ったのでしょう。それまではこの地は大分
八幡の放生会をおこなうための頓宮になっていたようです。

お参りが終わったあとで、また表側に戻り、参道の横から地下鉄に乗ります。
中洲川端で乗換えて祇園で下車。時刻は16時すぎ。櫛田神社にお参りします。

ここは博多の総鎮守。博多を代表するお祭り、7月の「祇園山笠」はこの神社
のお祭りとしておこなわれます。

御祭神は大幡主神(おおはたぬしのかみ,正殿:櫛田宮)に、須佐之男命(すさ
のおのみこと,右殿:須賀宮)、天照大神(あまてらすおおみかみ,左殿:大神殿)
となっています。

元々天平宝字元年(757)に伊勢国松坂の櫛田神社(伊勢白粉の産地として有名
な付近)を勧請してこの地の産土神としたもので、その伊勢の櫛田神社の神
である大幡主神が、伊勢の神宮の神・天照大神にお仕えしていたため、そち
らとは離れられないということで、天照大神も一緒にお祭りすることになり
ました。その後天慶4年に、この地の者が京都の八坂神社に藤原純友の乱の
平定を祈願したことから、その御祭神の素戔嗚尊も当地から勧請することに
なりました。

そういうわけで祇園祭を行うことと「櫛田」という名前から即連想するよう
に櫛稲田姫をお祭りする神社ではありません。ただこの誤解はかなり通用し
ていて、大幡主神を櫛稲田姫の別名と思っている人も多いようです。

大幡主神は別名を大若子命ともいい、天御中主神の19世の孫で、北陸地方
で怪物退治をした英雄神とされています。そして櫛田神社という名前の神社
は北部九州に幾つかと伊勢松坂にある以外に、北陸にも私が確認しただけで
3つあるのです。

大幡主神が伊勢におられた理由は、実は豊受大神を伊勢にお迎えした縁起に
絡んでいます。

雄略天皇の22年天照大神が倭姫命の夢枕に立たれ、安心して食事を取れるよ
うに丹波国の真奈井原から(食物の神である)止由気大神を呼んで来て欲し
いとおっしゃいました。そこで倭姫命が大幡主命を天皇の許へ派遣し、その
旨をお伝えした所、山田原の地に社殿を営み、豊受大神宮(外宮)がお祭り
されることになったのです。

なお、同じ櫛田神社という名前でも、福岡市内早良区にある櫛田神社は肥前
の櫛田神社を勧請したもので、こちらは櫛稲田姫が御祭神であるようです。

この博多区の櫛田神社は歓楽街中州の近くにあることもあり、早朝から深夜
まで参拝客が途絶えません。また唯一1年中飾り山笠が飾ってあって、観光
客の目を楽しませてくれる場所でもあります。

拝殿でお参りし、裏手の摂社にもお参りして、今日は打ち上げです。




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