←↑→ 仮想旅2000(51) 但馬

翌11月23日(木)曇りのち晴れ(京都)

豊岡を6:31の山陰本線上りに乗って7:07梁瀬で降ります。今日は実はここか
ら逆行してまた豊岡に戻ってきます。

梁瀬駅から3.7km歩いて粟鹿(あわが)神社。日子坐(ひこいます)の重要拠点
です。日子坐は古事記において天皇以外では異例とも思われるほどその子孫
について詳しく記述されており、崇神王朝において超重要人物であったこと
が伺えます。日子坐にしてもその子の道主(みちのうし)にしても、あちこち
の神社の御祭神になっています。一応略系図を下記に挙げます。

 開化―+崇神天皇――垂仁天皇――景行天皇―+成務天皇
 天皇 +日子坐王             +日本武尊――仲哀天皇
     ‖‖‖――沙本毘売(垂仁天皇后)
     ‖‖大闇見戸売
     ‖‖―――道主王――日葉酢比売(垂仁天皇后・景行天皇母)
     ‖息長水依比売
     ‖――――大筒木真若王―迦邇米雷王―息長宿禰王―息長足姫―応神天皇
     袁祁都比売                  (神功皇后)

この日子坐の子孫を賀茂一族といいますが、京都の賀茂神社に関わる賀茂建
角身命に始まる賀茂一族とは別の賀茂一族です。事代主神の子孫が神武天皇
から始まる王朝に深く関わったように、日子坐の子孫は崇神天皇から始まる
王朝に深く関わっています。あるいは天皇の家に妃を出す家系のことを元々
「賀茂」と呼んだのかも知れません。

上記の系図で応神天皇を神功皇后の下に書きましたが「公式の」系図では
仲哀天皇の子として記入されます。しかしこの系図のように思っている人の
方が多いでしょう。そういう意味では日子坐は応神天皇に始まる第三王朝の
祖という重要な位置にもあるわけです。

崇神天皇は日本書紀に「初めて国を治めた天皇」と書かれていて、実質大和
朝廷がここから始まったことが示唆されています。その時に深く関わってい
る日子坐というのは、たぶん「大和朝廷を造った人」なのでしょう。奥様の
大闇見戸売(おおくらみとめ)はその名前から、かなり有能な巫女と考えられ、
自らは崇神天皇の四道将軍の一人という立場ですから、武と神による支配と
いうもののモデルを作ったのが彼なのかも知れません。

そしてこの粟鹿の地は日子坐の終焉の地と伝えられています。そしてこの神
社の横にある小高い丘がその御陵とされています。神社の御祭神も日子坐と
考えられますが、取り敢えず公式には彦火火出見尊があてられています。

お参りしてから梁瀬駅に戻ります。梁瀬8:54→9:03養父。駅から1.6km歩いて
養父(やぶ)神社にお参りします。ここは盛り沢山の神社で延喜式には「五座
名神大二座・小三座」とされています。かなり重視されていた神社であると
いうことなのでしょう。御祭神は倉稲魂命・少彦名命・大己貴命・谿羽道命・
船帆足尼命の五座と現在はされていますが異説もあります。倉稲魂命は新し
い世代の神様ということもあり保食神とする意見もありますし、大己貴命の
代わりに五十猛命を入れるものもあります。なお谿羽道(たにはみち)命は
道主(みちのうし)のことです。

お参りしてから駅に戻ります。養父10:43→11:06国府。駅から2km歩いて
十二所神社にお参りします。御祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神・天児屋根命
となっていますが、この地で亡くなった後鳥羽上皇の皇子雅成親王の妃・
幸姫の祠も「髪の社」として崇敬されています。

お参りしたあと、東へ7.5km、約2時間かけて歩いて出石神社に至ります。
ここが但馬国の一宮です。到着したのは13時半ころ。

延喜式では「伊豆志坐神社八座」と書かれていますが、御祭神は記紀に記さ
れている新羅王子・天日槍の八種神宝とされています。これを通常出石八前
大神と称します。日子坐の子の道主が奉祭し、その子孫が代々この神社を守
ってきたとのこと。

お参りしてから今度は北に7.4km歩いて中嶋神社に至ります。御祭神は田道
間守(たじまのもり)。垂仁天皇の命で不老長寿の実を探しに常夜国まで行っ
て来たという人です。苦労の末探し出したのに、戻ってきた時は既に天皇は
亡くなっていたとという伝説が伝えられています。彼の墓は垂仁天皇陵の周
壕の中に浮かぶ小島にあるという伝承がこの地にあります。

お参りしたあと5.9km歩いて豊岡駅までたどり着きます。今日はこのあとJR
で城崎に向かい、城崎で泊まります。

{magclick}




(C)copyright ffortune.net 1995-2013 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから