←↑→ 仮想旅2000(7) 福島

いったん駅まで戻り、奥羽本線上りの列車に乗ります。

8:03米沢発8:48福島着。これを逃すとなんと13:19まで無いというとんでも
ない連絡の悪さ。しかし米沢から福島へは山をひとつ越すだけです。

さて、福島駅から目指すのは市内北部の信夫山。少し小雨が降っています。

ここは熊野山(268m), 羽黒山(264m), 羽山(268m)という3つの小さな山が
連なっているところで、目的地はこの羽黒山にある羽黒神社。このほか、
羽山には湯殿山神社・月山神社があって、まるで出羽三山の出張所のよう
な感じ。ところが。。。

この地に伝わっている伝説では、むしろ出羽三山がこちらより後にできた
のであって、この福島の三山の方が元祖だというのです。

それは欽明天皇の御代のことです(出羽三山は欽明の娘の推古天皇の御代)。
欽明天皇には当時、淳中太尊・淳太敷尊という二人の皇子があり、どちらが
皇太子になるかというので意見の対立がありました。

皇后の石姫(宣化天皇の娘)は第一皇子の淳中太尊を推したのですが、天皇
は第二皇子の淳太敷尊を推していました。結局両者の争いは武力衝突になり
天皇側が勝利。皇后と淳中太尊は東北へ逃れて、この地に留まったと言われ
ます。そして、この福島の羽黒神社はこの淳中太尊・石姫命の2柱をお祭り
する神社なのです。

この御神体は女体の観世音菩薩とされ、明治以降は神仏分離令のため市内の
真浄院に安置されています。めったに御開帳されない秘仏で、無理に見よう
としたら目がつぶれたなどという話も伝わっているようです。恐らくは石姫
を写した観音様なのでしょう。

また、明治まではこの神社の前に大きな仁王門が建っており、その仁王様に
履いていただく巨大なワラジを奉納する祭りが行われていました。その祭り
は現在2月の10〜11日に「信夫三山暁参り」として続いていますが、8月の
1〜2日にも福島市の夏祭りとして、やはりワラジ奉納が行われるようになっ
ています。

ただ、この羽黒神社の御祭神については異説もあり、淳中倉太珠敷命(後述)
であるという説、お稲荷様(倉稲魂命)であるという説などもあるようです。

日本書紀の記述によれば、欽明天皇の第一皇子は箭田珠勝大兄皇子と申され
第二皇子が訳語田淳中倉太珠敷尊と申されたことになっています。ところが
欽明13年4月に箭田珠勝大兄皇子が亡くなってしまったため、淳中倉太珠敷尊
が次の天皇(敏達天皇)になったとされています。

つまり羽黒神社に伝わる説(というか福島藩主堀田正仲の説なのだが)にいう
淳中太尊・淳太敷尊という御名前は、日本書紀上の敏達天皇の御名前を2分割
していることになります。そちらが正しいとすれば逆に日本書紀の敏達天皇
の御名前は二人の皇子の名前を合体していることになります。実際には日本
初期の言葉で言えば箭田珠勝大兄皇子と訳語田皇子の争いということなので
しょう。

争いがあって敗れた側が落ち延びてというのは、実際問題として出羽三山の
開山説話と同じパターンです。そちらでは崇峻天皇の皇子の蜂須皇子が崇峻
天皇が暗殺された後、聖徳太子の助けにより東北へ落ちのびて、出羽三山を
開いたことになっています。

この崇峻天皇、問題の敏達天皇、聖徳太子の父の用明天皇、そして崇峻天皇
を継いだ推古天皇、というのは全て欽明天皇の子供たちです。そして実は、
この時期ほんとにこの程度の武力衝突があってもおかしくない状況でした。

当時はいわゆる河内王朝が滅び、継体天皇が北陸から迎えられて現在の皇室
につながる近江王朝が始まった時代です。そのため両派の融合のため、継体
天皇はわざわざ仁賢天皇の娘手白髪姫を皇后に迎えており、欽明天皇はこの
手白髪姫が産んだ子供です。

しかしそういう立場である欽明天皇が玉座にあれば、元々継体天皇に付き従
ってきた勢力は面白くない。そこで欽明天皇は継体天皇と元々の正妃であっ
たはずの尾張目子媛との間に生まれた宣化天皇の娘である問題の石姫を皇后
に迎えて、やはり両派の融合を図っています。(石姫の母は手白髪姫の妹の
橘仲皇女.....凄い複雑な系図ですね)

この時代は欽明天皇と宣化天皇は両立していたのではないか、つまり室町時
代初期の南北朝のように二人の天皇が併立していたのではないかという説を
となえる人もあるくらいです。皇子の継承権争いくらいあってもおかしくな
いのは確か。つまり、日本書紀でいうところの箭田珠勝大兄皇子はほんとに
訳語田皇子と皇位継承権を争ったかも知れません。ただし日本書紀では箭田
珠勝大兄皇子も訳語田皇子も石姫の子ということになっていますが.....

なお、推古天皇・用明天皇は欽明天皇と蘇我堅塩姫の間の子、崇峻天皇や
聖徳太子の母(用明天皇妃)の間人皇女は欽明天皇と蘇我小姉君(堅塩姫の
妹)の間の子です。このあたり系図を自分で書いてみると、いかに複雑な
婚姻関係が存在するかが分かります。

実際、河内勢力と継体天皇系の勢力の争いに乗じて漁夫の利を占めて次世代
の覇権を握ったのが蘇我だったのでしょう。

歴史的背景説明が長くなったので、実際の参拝についてはまた明日。




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