↑ ← → 仮想旅(43)大分:宇佐神宮
written by Lumiere on 96/12/20 20:07
大分に着いたのが11:10。ここで日豊本線の上り列車に乗り換えます。目指すは
宇佐。全国の八幡宮の総本宮・宇佐八幡宮のあるところです。

この宇佐八幡、正式には「宇佐神宮」なのだそうですが、一般には「宇佐八幡」
の方が通りがよいでしょう。御祭神は八幡大神(はちまんおおかみ)とその奥
様の姫大神、そして神功皇后も祀られています。この辺りの話はまたおいおい
して行きましょう。

取り敢えず大分を11:18のにちりん20号で出て宇佐(うさ)到着が12:05。そう
いえば戦後間もない頃、「made in USA」と印刷された洋服か何かを国内で生産
して高く売りボロ儲けしていた業者が摘発されたことがありました。「舶来品」
は高級品である、という神話が存在していた時代です。

日本国内で作っていて「made in USA」とは何事だ?という警察の指摘に対して
業者は「これは宇佐で作ったものだ」と主張しました。そして「その証拠にア
メリカで作ったというのなら made in U.S.A. と書くはず。うちのは省略を示
すピリオドが無い。これはウサとしか読めないのだ」と言い張ったのです。

などという関係ない話は置いておいて(^^; さて宇佐神宮です。

宇佐駅からバスに揺られて10分ほど。宇佐八幡前で降りて境内に入ります。

さて、この境内がもの凄く広い。伊勢神宮の境内も非常に広いものでしたが、
ここも拝殿までたどりつくのに相当時間がかかりそうです。

この神社の発端を伝える話はいくつもあります。

もっとも有名な物は次の物です。和銅5年(712)、この地に体は一つであるが頭
が8個ある翁が出没した。その翁に近づこうとする者は大抵死んだが、大神比
義という男が見に行くと翁は金色の鷹、そしてやがて金色の鳩に変化した。こ
れは神様に違いないと感じた比義はそのまま山中で三年間修行して神の示現を
待った。そしてその日。神は三歳の童子の姿で現れた。「辛国の城に始めて、
八流の幡(旗)を天降して、吾は日本の神となれり」比義はその地に祠を建て、
この八本の旗を伴った神を八幡神と呼んで祀った。

別の説では八幡神が現れたのは欽明天皇32年(571)ということになっています。
その場合、神が宇佐郡馬城嶺に奇しき光とともに示現したとされ、この馬城嶺
は現在の宇佐八幡の背後の御許山(おおもとさん)のことです。

また別の説で大神比義が聞いた言葉は「吾は誉田別皇子なり」であったとも、
「吾は誉田天皇広幡八幡麻呂なり」であったとも言われます。この「誉田天皇」
とは応神天皇のことで、ここから応神天皇と八幡神が同一視されるようになっ
たようです。(というよりも応神天皇を八幡神と同一視する思想がこの言葉を
生み出したのでしょう)

いづれにしても宇佐八幡の元の社は御許山にあったようで、そこには現在宇佐
八幡奥の宮の大元神社が建っています。また近くには明らかに人手の加わった
巨岩3個からなる磐座(いわくら)があるということですが、その付近は聖地
として一般の人は立入禁止になっています。そしてこの三つの磐座を八幡三柱
神として麓に遷座したものが現在の宇佐八幡であるようです。

なお更に別の説では御許山に示現した神は翁でも童子でもなく姫神であったと
します。この説は姫神というイメージと八幡神は三柱の神であるということか
ら、宗像の三女神と関連づける思想を生み出します。

宇佐神宮によれば八幡神の示現は欽明天皇32年であったとし、和銅元年(708)
に鷹居社建立、霊亀2年(716)に小山田社に移り、神亀2年(725)に現在の亀山の
地に移って第一神殿が作られ、天平元年(729)に第二神殿、弘仁14年(823)に第
三神殿が作られて今の形になったとします。

ところで八幡神と同一視されている応神天皇について少しふれておきます。

応神天皇(おうじんてんのう)の母は即位の記録こそ無いものの実質的に日本
で最初の女帝・神功皇后(じんぐうこうごう)、父は日本武尊(やまとたける
のみこと)の子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)です。仲哀天皇は九州
の反大和朝廷勢力を討つため福岡の香椎宮に来ていました。

この時天皇の側近の武内宿禰(たけうちのすくね)と神功皇后は九州のこれら
の勢力のバックには朝鮮がいるとして、そちらを一度攻撃して牽制しておいた
方がいいと主張しますが、天皇は外国に兵を進めることに反対します。ここで
天皇が急死(-_-; 神功皇后と武内宿禰はこれ幸いと対馬海峡を渡り、三韓(百
済・新羅・高句麗)に攻め入りました。大和軍は各地で勝利を収め、神功皇后
は凱旋、九州の地に戻って誉田別皇子(ほむたわけおうじ)を産み落とします。
この神功皇后が皇子を産んだ場所をそれにちなんで宇美(うみ)といいます。
現在宇美八幡宮が建っている場所です。

神功皇后はこの戦勝の勢いに乗ってこの誉田別皇子を次期天皇にしようとしま
すが、仲哀天皇の年長の皇子たちは、誉田別皇子は仲哀天皇の子供ではないの
ではないか、といってこれに反抗。両者は軍事衝突となります。

戦況は一進一退でしたが、最後は武内宿禰の奸計などもあり、神功皇后側が勝
利を納め、誉田別皇子を天皇の位に付けます。これが応神天皇です。

さて、色々と話している内にまず下宮にたどりつきました。宇佐八幡の本殿は
下宮と上宮があり、どちらも同じ三柱の神を祀ってあります。ここで三つの社
殿の一つずつにお参りします。そして先へ。

さてこれから行く上宮の方の神殿もやはり三柱の神のために同じ大きさの神殿
が3つ並んでいるのですが、これは左から八幡神・姫大神・大帯姫神となって
います。姫大神が真ん中というのは面白い。ということで、この御祭神のこと
については実は色々な人が色々なことを言っています。

通説では、この八幡神は応神天皇、姫大神はその妃、大帯姫は応神天皇の母の
神功皇后ということになっているのですが、まず姫大神については応神天皇妃
ではなく宗像の三女神(市杵島姫・田心姫・多岐津姫)であるという説があり
ます。

また八幡神が神仏習合の際に八幡大菩薩と言われたのに対して大帯姫は聖母大
菩薩と言われていました。ここに八幡神の信仰のベースにはキリストとマリア
のような聖母子信仰があるとする指摘もあります(柳田国男等)。その聖母子
信仰が神功皇后と応神天皇という母子と結びつき、八幡神は応神天皇で大帯姫
は神功皇后であろうということになったのではないか、と。


やっと上宮本殿までたどりつきました。切り妻造りのやはり3つの同じ大きさ
の神殿が並んでいます。一つずつお参りしていきます。。。。が何かちょっと
大きなものに快適に包み込まれるような感じ。とてもいい感じです。ここは、
とても神聖な空間のようです。気持ちのいいまま上宮を後にします。


宇佐八幡はこの九州の地にありながら中央の政治と何度も関わって来ました。
その幾つかを紹介しましょう。

奈良の大仏が鋳造された時、それは国をかけての大事業でした。近年で言えば
東海道新幹線を作ったような国の威信に関わる事業だったと言えます。この時
宇佐八幡の神は天神地祇を率いてこの鋳造に協力したのです。仏教という神道
からすると敵になる宗教のために。これは宇佐の一族が持つ大陸伝来の技術力
が当時必要だったためとされます。その結果奈良の大仏は八幡神の守護を受け
ることになり、お礼に八幡神は護国霊験威力神通八幡大菩薩の号をもらいます。
この時から神仏習合が始まったとされます。

称徳天皇が道鏡を重用していた時、宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にせよ」とい
う託宣を出したという噂が都に流れました。真偽を確かめようと天皇は和気清
麻呂を宇佐に遣わします。道鏡は天皇家の血を引いていませんから、そんなこ
とをすれば「万世一系の」天皇家の血筋が途切れる所だったのですが、むろん
天皇の意向としては大好きな道鏡に位を譲りたかったし、清麻呂も軽い気持ち
でそういう託宣を得てくればよいと思って、九州の地にやってきました。

が、この上宮の本殿に入り、独特の神々しい雰囲気に包まれた時、清麻呂の頭
の中は空白になりました。そして確かに神の声を聞きました。清麻呂は都に帰
り覚悟を決めて神託を告げました。「臣を以て君に代えるなどとんでもない」
と。天皇は激怒し清麻呂を流刑に処しますが、そういう神託が出た以上道鏡に
天皇の地位を譲ることはできなくなってしまいました。失意の内に翌年天皇は
死に、持統天皇系の血統が途絶えて天智天皇系の天皇が誕生します。道鏡は失
脚、清麻呂は復職して大事に扱われました。

安徳天皇にまつわる話は宇佐八幡だけに伝わるもので歴史学者は一笑に付すも
のと思いますし、八幡神が源氏の守護神として非常に崇敬されたことと考え合
わせると、ちょっと奇妙な話です。安徳天皇ら平家一門は源氏の追求を逃れて
西国まで落ちて来ていましたが、壇ノ浦に向かう前にこの宇佐八幡に一時期保
護を求めて来ました。この時このままでは安徳天皇は平家とともに死なざるを
得ないであろうと思った時の宮司は一晩寝ずに悩んだあげく、平家の幹部にあ
る相談を持ちかけました。それは宮司の息子を安徳天皇の影にするということ
です。宮司にはちょうど同じくらいの年の男の子がいたのです。そして天皇は
宇佐八幡でほとぼりが冷めるまで保護しようというのです。この計画はごくご
く少数の者だけが知る中実行されました。そして宮司の息子は安徳天皇の身代
わりに関門海峡に沈みました。安徳天皇は宮司の息子として育てられ、やがて
非常に立派になって、結果的にこの子が宮司家を継ぎました。そのため、現在
の宮司家は実は安徳天皇の子孫だというのです。

さて広い境内を歩いて歩いて、やっと出口のところまで戻って来ました。時計
を見るともう13時45分です。一時間以上境内を歩き回っていたことになります。
バスに乗って宇佐駅に戻ります。次は宮崎です。




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