仮想旅(39)山口:赤間神宮

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written by Lumiere on 96/12/17 20:42 あまり意識したつもりはなかったのですが、今回の旅はけっこう関連した神社 を連続して訪れたりしていることがあるようです。

伊弉諾神(いざなぎのかみ)の多賀大社の次にその娘の天照大神(あまてらす おおみかみ)を祭った伊勢の神宮に行きましたし、近いからの必然性もあったの ですが、鹿島神宮の次に香取神宮、立山の後に白山というのもありましたし、 天海上人絡みの神田明神・日光東照宮も連続でした。

そして今回平清盛ゆかりの厳島神社の後に訪れるのは、その平清盛の孫である 安徳天皇が祭られている赤間神宮です。

宮島口に戻ってきたのは9時半でした。広島駅を9:46のこだま365号で山陽路を 下ります。新幹線の中で朝食を取り、11:01に新下関着。さてこの新下関の駅 のすぐ近くには長門国一宮の住吉神社もありますが、赤間神宮はそこよりも 5kmほど南の壇ノ浦にあります。11:06の在来線下りに乗って11:14下関駅着。
ここからバスに揺られて赤間神宮へ向かいます。

平清盛亡き後、平家をうまくまとめられる人物はいませんでした。折りもおり、 清盛が、若い故にと一命を救って伊豆に流していた源氏の生き残りの源頼朝が 反平家の挙兵をします。これに木曾義仲・源義経も呼応し、特に義経の天才的 な戦術の数々の上に平家は一ノ谷・屋島と敗走につぐ敗走を続け、やがてここ 壇ノ浦にて一族滅亡となるのです。まだ幼かった安徳天皇も平家一族とともに 各地を転々とし、最後はこの地で祖母(平清盛妻)の二位尼(にいのあま:平 時子)に抱かれて水底に沈んで行きます。この時天皇が「どこへ行くのですか ?」と聞くと二位尼は「波の底にも都の候ぞ」と言ったと伝えられます。時に 寿永4年(1185)の3月24日午後4時。

以来、この地の漁師は壇ノ浦近辺で漁をする時は船の中で正座をするといいま す。これはこの水底に沈んでいる安徳天皇を敬ってのことです。

なお、この合戦の時安徳天皇の母の建礼門院(平徳子)だけが、着ていた服が 飛んできた矢で船縁にひっかかり助かってしまい、彼女は後に京都大原三千院 に引き籠もります。

バスを降りると目の前に美しい朱塗りの赤間神宮、右手に大きな関門橋が見え ます。安徳天皇ら平家一門が沈んだ壇ノ浦の古戦場はその橋の向こう、ちょう ど関門国道トンネルや新幹線の新関門トンネルが通っている付近にありますが、 安徳天皇陵はこの赤間神宮のそばにあります。

もともとこの神社は建久2年(1191)に先帝安徳天皇の霊をなぐさめる為にこの地 に建立された霊廟が発端になっています。後これが浄土宗西山派の寺院阿弥陀 寺となり、鎌倉幕府の実権を握った北条氏・室町幕府の足利氏をはじめ諸大名 の保護を受けて大きく育ちますが、明治の神仏分離令によって神社に看板を変 え、安徳天皇社と称しました。

これを明治天皇の勅定により明治8年(1875)地名の赤間関をとって赤間宮と改名 し、更に昭和15年(1940)昭和天皇の勅定で赤間神宮という現在の名前になりま した。

しかし長い間お寺であったにも関わらず、この神社にはそういう雰囲気は全く 感じられません。この現在の社殿は太平洋戦争の空襲で焼けたものを昭和40年 (1965)に再建したもので、赤い社殿と緑の木々に白い石、それに青い海が美事 なハーモニーを奏でていて、まるで竜宮城のようにも見えます。神門(水天門) などは絵に出てくる竜宮の門にそっくりです。ここはまさに安徳天皇が赴いた 水底の都なのかも知れません。

なお赤間神宮では安徳天皇の命日の3月24日を明治の新暦切替による換算で5月 2日と治定し、この日に先帝祭を行っています。また境内には耳無芳一の木像 も安置され、7月15日に供養の琵琶演奏が奉納されます。

美しい神殿にみとれながらも厳かな気持ちで参礼し、私は神社を後にしました。


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