天神様

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天神様
天神様 てんじん

全国に物凄い数がある神社のひとつ、天神様・天満宮の御祭神は、菅原道真(すがわらのみちざね)公ということになっています。一部菅原神社という名前になっている所もあります。
下記は1996/04/17 17:36のタイムスタンプでniftyの会議室に書いた物です。色々恥ずかしい所もありますが、とりあえずそのまま掲載。

さて、応神天皇の八幡宮と並んで人が神になったとされる神社で大きな勢力を持つのは菅原道真の天満宮(天神様)です。数としては全国14000社ほどで神社数のランキングでは第4位になります。

菅原道真は宇多天皇に重用されました。当時は藤原家に強力な人材がいなかったこともあり、宇多天皇は久しぶりに天皇親政を行ってその片腕として博識の道真をよく使ったのです。

宇多天皇は更に藤原家に政治が牛耳られないようにするためには自分が引退して息子を天皇に立て院として天下に指示した方がよいと考え、寛平9年(897)7月3日、醍醐天皇に譲位します。所がこれが完全に裏目に出てしまいました。

醍醐天皇は何かと口うるさい道真を嫌い、自分と馬の合う藤原時平に傾斜して行きました。そしてついに昌泰4年(901)正月25日、醍醐天皇は道真から右大臣の地位を召し上げ、九州の太宰府へ左遷する詔を出すのです。知らせを聞いて驚いた宇多上皇が宮中に駆けつけますが、門番が頑として上皇を中にいれず、宇多天皇は裸足のまま呆然と門の外に夜まで立ちつくしていたといいます。

道真は太宰府で半ば軟禁状態のまま失意の日々を送り、延喜3年(903)2月25日この世を去りました。この時道真は遺言をし、自分の遺体を車にのせて牛に引かせ、牛が立ち止まった所に自分を葬ってくれ、と言い残しました。これは味酒安行によって実行され、彼は2年後その墓の所に小さな祠廟を建て、稀代の宰相の霊をなぐさめました。

なお道真が都を去る時自宅の梅の木を眺めてこのような歌を読んでいます。

東風(こち)吹かば 思いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
この梅の木は道真が亡くなると主を慕って九州まで飛んできて、道真の墓の側に移ったといい、これを「飛梅」といいます。その何世代か後の梅の木が今もその地太宰府天満宮に残っています。

さて道真が追われた後、都では異変が相次ぎます。まず道真追放の主役を演じた藤原時平が延喜9年4月に39歳の若さで死去、4年後には右大臣源光も亡くなります。また宇多上皇を皇居に入れなかった門番も変死。更に延喜23年3月には時平の妹穏子と醍醐天皇の間に生まれた皇太子保明親王が21歳で死去、追い討ちを掛けるように2年後にはその保明親王と時平の娘との間に生まれた幼い新皇太子慶頼王まで亡くなってしまいます。

これを世の人々は道真公が自分を追いやった時平公の縁者に祟っているのだと噂します。醍醐天皇も恐くなって道真を右大臣に戻す詔を出したりしますが、怪異は収まる気配がありません。

そしてとうとう延長8年(930)の6月26日、内裏に落雷があって大納言藤原清貫と右中弁平希世をはじめ何人もの殿上人と女官が雷に撃たれて死亡するという事件が起きます。醍醐天皇はショックで病に倒れ、3ヶ月後この世を去ってしまいました。世の人は道真公は雷神になられたのであろうと口々にいいました。

さてこのような騒ぎの中道真はどんどん神格化されていきます。柳田国男は人が神として祀られる第一の条件はその人がこの世に恨みを抱いて死んで行った場合であると言っていますが、そのまさに典型がここにあります。(柳田国男「人を神に祀る風習」)

味酒安行が祀った小さな祠は延喜19年藤原仲平の命により大きな社殿に作り変えられました。そしてやがて都でも道真公を祀ろうとする動きが出て来ます。

最初天慶5年(942)京都の多治比文子という人が「右近馬場に祠を建てよ」という道真公の託宣を受けますが、庶民にはどうにもならないため、仕方なく自分の家のそばに小さな祠を建ててお祀りします。その5年後今度は近江国比良宮の禰宜の神良種(みわ・よしたね)の子供の太郎丸にやはり同様の託宣があり、その問題の右近馬場に一夜にして松が数千本生えるという奇跡が起きた為、良種は文子とともに北野朝日寺の最珍に協力を求め神殿を建立しました。

ここで永延元年、一条天皇が勅命で道真公を祭るお祭りを行い、これを北野祭と称して、その後この神社は北野天満宮と呼ばれるようになったのです。一条天皇自身寛弘4年(1004)に行幸しています。



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