高皇産霊尊 ‖ ┏高皇産霊神━天太玉命━天石戸別命━天富命 ‖━┫ ‖ ┗天神玉命━天櫛玉命━天神魂命━櫛玉命━天八咫烏 神皇産霊尊賀茂始祖伝によれば、元々一族は宮崎の高千穂に住んでいましたが、建角身命の代に神武天皇の東征の際、日向の山中で日の神からの天啓を受け、長髄彦との戦いで苦戦していた神武天皇の元に赴いて、紀州熊野から大和へ至る道を先導しました。これにより天皇より八咫烏(やたがらす)の称号を頂きました。これは後の錦冠位のようなものであるといいます。
神武天皇在位中は葛城にいて天皇を補佐し、天皇が亡くなられた後は岡田の賀茂に閑居していましたが、神武天皇の子の綏靖天皇が再びお召しになりそれを助けたとのことです。
奥様は神伊可古夜日女(かむいかこやひめ)で、氷上町の神野社に祭られています。その間に生まれた玉依姫は建角身命とともに京都下鴨神社におられ、玉依姫の子の賀茂別雷神は京都上賀茂神社におられます。
山城国風土記逸文(釈日本紀)には下記のような記述があります。
(賀茂建角身命は)大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこから次第に移動し、山代の国の岡田の賀茂に至り、山代河にしたがってお下りになり、葛野河と賀茂河とが合流する所においでになり、賀茂の川を見渡して「この川は狭く小さくはあるけども石川の清川ではあるよ」と仰せられた。
それで名付けて石川の瀬見の小川という。その川からお上りなされて、久我の国の北の山の麓に住居をお定めになった。
賀茂氏は実際には雄略天皇の頃に葛城山の勢力を倒して、代わりにここに入ったものと推定されています。そして後に大和朝廷が奈良盆地の北の方へ勢力を広げ始めると交通の要所である岡田に展開したようです。葛城の下鴨神社には事代主神が祭られており、岡田の鴨神社は賀茂建角身命が御祭神です。事代主神はこの木津川・淀川を通って、三島の溝咋姫のところ(現・三島鴨神社&溝咋神社)へ通っていたといわれ、上記山城国風土記の建角身命と同様に、木津川・淀川ラインを使用しています。
ただ、事代主神が木津川と桂川の合流点から南下して淀川方面に行った(淀川河口の近くには事代主神を祭る今宮戎神社や事代主の降臨の場所とされる石津神社がある)のに対して、建角身命は北上して京都方面に展開し、鴨川上流の賀茂神社に落ち着かれたようです。
実際には雄略帝の頃以降、賀茂一族が鴨川、秦一族が桂川沿いに展開して、このふたつの氏族で京都の開拓を始めたようです。
なお、岡田付近の木津川の流れも昔は「鴨川」と呼ばれていました。