福助

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福助
福助 ふくすけ

福助の発端については幾つかの説があるようですが最も有名なものは京都の大文字屋の主人に関するものです。その話を書いた「大丸騒動綾錦都乃花衣」(花の舎静枝著・明治25年)によれば次のようなことであったといいます。

八代将軍吉宗の頃、伏見の百姓下村三郎兵衛に彦太郎という子供が生まれました。この子は頭が大きく背が低くて耳たぶが垂れ下がっていましたが、9歳で上長者町の大文字屋に奉公に出て主人に認められ、やがて独立して伏見京町に大文字屋の支店を出すまでになって、名前も彦右衛門と改め、名古屋からお常という嫁ももらいました。

彦右衛門は伏見のお稲荷様の信仰が厚く、そのせいかある時妻の実家の名古屋で木綿の足袋・腹がけと「大」と染めた手ぬぐいを売り出したところ、これが大流行し、あっという間に大店の主人に出世しました。これを見ていた伏見の人形師たちが彦右衛門の人形を作り、福助と名づけて売り出したところこれも大流行したというのです。

また別の説では摂州の百姓佐五右衛門の子供佐太郎がモデルであるという説もあります。この説では佐太郎は頭が大きく背が低かった為、その容貌をからかわれて村に居たたまれなくなり旅に出て、小田原宿で「福助」の名前で見世物に出ます。これが人気を呼び、ある旗本に30両で買われ屋敷に奉公に上がりました。すると彼のおかげでその旗本は色々と幸運に恵まれ、その屋敷に奉公していた女中と結婚し、その絵姿を描いて売り出したらこれが又流行したとのことです。享和4年(1804)のことだとされます。

この他、またある説では滋賀のもぐさ屋「亀屋」の番頭福助であるともいいます。亀屋は現在も続いており、店には150年前から巨大な福助人形が飾られています。現在のものは2代目の人形ですが、歌川広重の絵に、その店先の様子が描かれ、そこには初代の福助人形がしっかり描かれています。

現在の福助の人形のベースを作ったのは何といっても下着メーカー大手の「福助株式会社」です。同社は元々丸福辻本商店といい明治15年に堺で足袋屋さんとして創業、機械化にも成功して丸に福の文字のマークの足袋は好調に売れはじめていました。

ところがここにクレームがつきました。その丸に福の文字のマークは以前から和歌山県の丸福足袋が商標登録をしていたというのです。辻本は裁判までやったものの敗訴し、折角広まったこのマークは使えなくなってしまいます。

困っていた時に辻本家の息子の豊三郎が古道具屋の店先で福助人形を見かけ、突如としてこの人形を新しいマークにすることを思い付きます。豊三郎がこの人形を買って急いで家に戻りそのことを話しますと、父の福松は自ら筆をとって福助の絵を描き特許庁に持っていってこれを商標として届けました。そして会社名も「福助印堺足袋」と改称、この福助さんマークの足袋は全国に知られるようになるのです。この時の福助人形は現在福助の社宝として大事に保管されています。

荒俣宏は「福助さん」(筑摩書房)において、福助人形の特徴を5点あげています。

荒俣氏は特に上記の内、正座・四角い座布団・裃というものから福助人形は吉宗の時代より以前には溯らないという点を指摘しています。座布団は以前は丸いものであったし正座というのは昔はなく、あぐらか片ひざを立てた座りかたが一般的であったとされます。また改まった時に裃を着る習慣も吉宗の頃の時代から始まったものだそうです。

ところで福助には家族がいたようです。まず福助の名字は「叶」であるとされています。「願いがかなう」に掛けたものでしょう。十辺舎一九の「叶福助噺」では大黒天が娘の吉祥天の婿に福助を迎えたという話が載っています。

二人の間には福蔵・福六という二人の子供ができました。また福助はお多福とも懇ろの仲になり愛人にしたのだといいます。しばしば福助とお多福が仲良く並んで座っている人形があります。また福助の母は、おかめであったとされ、おかめが福助を背負った人形などもあります。



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