八幡神

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八幡神
八幡神 はちまんしん
大分の宇佐神宮,  福岡の筥崎宮,  京都の石清水八幡宮(男山八幡),  鎌倉の鶴岡八幡宮
八幡神社(はちまんじんじゃ・やはたじんじゃ)は大分の宇佐神宮を発端として全国に広がった神社で、特に元寇以降、戦いの守護神として武士階層に篤く信仰されるようになりました。

その御祭神である八幡神は次の三柱の神から成ります。

比売大神・応神天皇・神功皇后

一般に全国の多くの八幡神社では3柱を代表して応神天皇のみを御祭神として書いているケースが多いですが、実際には三柱の神はセットです。

ここで比売大神は宇佐神宮の元々の御祭神で、応神天皇とその母である神功皇后は後に一緒に祀られるようになった神です。

比売大神の正体については昔から諸説(宗像の女神という説や豊玉姫という説、卑弥呼という説、また潮の干満の女神など)ありますが、私は元々のこの地域の地主神ではないかと考えています。それは、八幡神社の中でほぼ唯一応神天皇を御祭神には入れていなかった大隅正八幡宮(鹿児島神宮)の研究から考察したものです。ここは応神天皇が宇佐神宮の御祭神に加えられる前に、宇佐から勧請されて分霊が祀られたのです。

八幡神を祀る神社は本当に多いですが、下記が特に有名です。

総本宮
大分県宇佐市の宇佐神宮
三大八幡
  • 京都府八幡市の石清水八幡宮
  • 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮
  • 福岡県福岡市の筥崎宮 (はこざきぐう)
五所八幡
  • 鹿児島県霧島市の大隅正八幡宮 (鹿児島神宮)
  • 福岡県飯塚市の大分(だいぶ)八幡宮
  • 佐賀県みやき町の千栗八幡宮
  • 熊本県熊本市の藤崎八旛宮
  • 鹿児島県薩摩川内市の新田八幡宮
  • (2016.6.26)
    下記は1996/04/17 17:36のタイムスタンプでniftyの会議室に書いた物です。色々恥ずかしい所もありますが、とりあえずそのまま掲載。

    全国には8万の神社がありますが、その中の実に2万5千社を占め系列神社数の第2位を誇るのが八幡宮です。(クイズ:それより多い1位は何でしょう?それを第2部の最終回にやります)

    この八幡神社は応神天皇を祀る神社で、その総元締めは大分県の宇佐八幡です。ここはそばに巨大な仏の里国東半島を控えており、宇佐一族の本拠地であったところで、神社は非常に広大な敷地の中の奥に本殿があり、応神天皇・比売大神・神功皇后が祀られています。途中の参道の側には武内宿禰を祭った社などもあります。

    宇佐八幡の本殿は社伝により改築する場合も絶対に位置を移動してはならないことになっています。それはこの本殿の下に何かあるものが眠っているからで、昭和になってからの改築の時、建築会社の技術者が移動させないと無理だと主張するのをそこを掘らせて、確かに何かが埋まっていることを確認させ、説得したということもありました。何が眠っているのかは分かりません。

    宇佐八幡の起源は欽明天皇の頃まで遡るとされますが、もう少しはっきりした伝承では、和銅5年に大神比義という人が山中で3年間木食の修行をしていると現在社殿のある場所に三歳くらいの童子が現れ、自分は誉田皇子であると語ったとされています。やはりここは修行の道場であったようです。誉田皇子は応神天皇の名前です。

    その応神天皇が実際に生まれた場所に建っているのは福岡県の宇美八幡です。応神天皇の母の神功皇后は朝鮮に戦争に行きその途中で子供が生まれそうになりましたが「まだ待ってろ」と言って引っ込めさせ、戦争が終わって帰国してからこの福岡の地で応神天皇を産み落としたといわれています。ここは小さい神社ではありますが、社殿の隣に樹齢1500年ほどの大木が立っています。もしかしたら応神天皇が産まれた時に植えたものかも知れません。

    奈良の大仏が作られた時、宇佐付近の帰化人たちが大勢鍛冶の手伝いに奈良に行きました。そして完成した時は八幡の神そのものが奈良へ行って大仏を祝福したと言われます。これによって奈良の大仏は宇佐八幡の守護を受けることになり、また宇佐八幡も護国霊験威力神通八幡大菩薩の号を受けました。これはいわば神仏習合の初期の段階の一つであり、また「神をどこそこの地に勧請する」ということの始まりだとも言われています。

    宇佐八幡は他に菅原道真や安徳天皇の件にも関わっているのですが、日本の歴史の中で一番重大なことに関わったのは宇佐八幡神託事件の時でしょう。

    時の天皇称徳女帝は祈祷僧の道鏡を寵愛し、わがもののように権勢をふるわせました。やがて彼女は天皇の位を彼に譲りたいと考えるのですが、その時なんとも都合よく宇佐八幡の神が「道鏡を天皇にせよ」というお告げを出した、という噂が出ます。しかし噂だけでは群臣が納得しませんので、天皇は真意を確かめさせる為に和気清麻呂を宇佐に遣わして、改めて神託を得ようとします。

    この時、清麻呂も宮仕えの身ですから最初長いものには巻かれていた方がいいだろうと考え道鏡寄りの神託を得て帰ればよいという軽い気持ちで宇佐までやって来たといいます。

    しかし彼は実際に宇佐まで来て神殿の中に進んだとき、その独特の神々しい雰囲気に圧倒され、全ての雑念が吹き飛んでしまいました。神官が祝詞を奏上し巫女が神に祈った時、清麻呂の心の中は空っぽでした。そしてその心の耳の中に確かにくっきりと神の意志が流れ込んで来たのです。神殿から1歩出たとき彼はこれは自分の生命に代えてもしっかりと主上に届けなければならない、と決意していました。

    そして都に戻った清麻呂は明確な神託を天皇に告げました。「古来より、君と臣ははっきり区別されたものである。臣を以て君に代えることはならない」と。称徳女帝は激怒し清麻呂を女官だった姉とともに免職・追放し刺客まで送ったりするのですがそれでも神託は神託。それに逆らう訳にはいかず失意のうちに亡くなってしまいます。

    そしてその後を継いだ光仁天皇の元で道鏡は東の国へ追放、清麻呂と姉も復職して、やがて都は仏教の影響を避けるために京都に移されます。これは日本の天皇の血筋がひとつ間違えば途絶えていたかも知れない重大な事件でした。



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