浄土宗

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念仏思想の先駆者たち

一般に浄土宗の開祖は法然上人とみなされていますが、法然上人より前にも念仏の先駆者たちはいました。

念仏の世界で最初に名を残しているのは空也上人(903-972)です。京都の六波羅蜜寺にある空也上人の像では、上人の口からたくさんの仏様が飛び出してきている様子を表しています。これは空也上人が唱えた念仏の言葉のひとつひとつが仏になったという、たいへんありがたいものであったことを示しています。

空也上人以前には念仏というものはお坊さんが唱えるものであって、人々はそれを聞くだけでした。しかし空也上人は、人々がみんな自分で唱えてこそ、阿弥陀様の救いがあるのだとして、民衆とともに念仏を唱え、踊りまくったのです。

念仏とは「南無阿弥陀仏」と唱え、阿弥陀様に救いを求めるものですが、それによって本当に救われるのだという理論的な背景を整理したのは源信上人です。

源信上人は「往生要集」をまとめ、極楽往生に関するFAQを整理しました。この書が後に法然上人に大きな影響を与えたのはいうまでもありません。

法然上人

法然上人は長承2年(1133)美作の国に生まれました。比叡山に上って僧として多くの勉強をしましたが、そこで学んだものだけでは、人々を救うことができないように思い始めます。そこで18歳の時、黒谷の叡空のもとへ行き、無冠の修行者たちの中に身を投じました。

ここで法然は往生要集ほかを学び、ここで20年以上の時を過ごす内に、念仏によりひたすら阿弥陀の本願にすがることだけが、人々を往生させるのだということを確信。43歳にして、一派を打ち立て、善導宗と称しました。

法然の思想は極論すれば念仏以外の仏教の修行は全て無意味ということにもなり、このため既存の仏教とするどく対立することになります。そのため、上人自身は四国に、弟子の親鸞は越後へなど、教団の幹部の多くが流罪になりました。

建暦2年(1212)流罪から許されて戻った京都の、現在知恩院が建つ地にて入寂。

浄土宗の成立

法然上人やその高弟たちがほとんど流罪になった時、源親季の子の証空上人だけは、その身分が幸いして流罪を免れ、その後の京都での布教の中心的存在となりました。この証空上人の流れを西山派といいます。

一方、九州にいた弁長上人は法然上人亡き後、弟子たちの間で教義が様々に解釈が分かれつつあるのを嘆き、法然上人の思想を「末代念仏授手印」にまとめました。弁長の弟子たちはこの後関東に進出して、勢力を拡大し、やがて京都にも手を広げます。この流れを鎮西派といい、現在の浄土宗の中で最も大きな流れになっています。そのため、現在弁長上人を浄土宗の第二祖としています。

法然上人の時代の教団はどちらかというと自主的な集まりで、宗派として成立するようになったのは、証空上人や弁長上人の時代のようです。そのあたりから浄土宗が成立したということができるでしょう。

現在(鎮西派)浄土宗の中核は知恩院、西山浄土宗の中核は光明寺です。

念仏の思想

阿弥陀如来はまだ菩薩の頃は法蔵菩薩といいました。その時、菩薩はいくつか(通常48個とされる)の誓いを立てたのですが、その18番目に「念仏する者が全員往生できない限り私は仏にはならない」という念仏往生の誓いというものがあります。

そこで、その阿弥陀の誓いにすがり、ひたすら「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えることにより、極楽浄土に往生しようというのが、浄土宗の基本概念です。この阿弥陀の誓いのことを「本願」といいます。

この念仏思想によって初めて、仏教は民衆のものになったということができるでしょう。


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