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全国66ヶ国お寺巡り99(40)若狭
本願寺をお参りした後、京都市内のホテルで一泊します。翌3月22日(月)。 今日は北陸道に入ります。まず目指すは若狭です。 朝7:00のはくたか7号で敦賀へ。ここで小浜線の普通列車に乗り換え、降り た駅は東小浜。時刻は9:11。今日最初の目的地は「お水送り」の寺・神宮寺 です。 奈良・東大寺の「お水取り」(修二会)は近畿地方に春を告げる行事ですが、 そのクライマックスでは閼伽井屋(あかいや)から若水を汲み上げます。この 閼伽井屋の水の水源になっているのが、この神宮寺の先にある鵜ノ瀬とされ ています。そこでお水取りの10日ほど前にこの地で「お水送り」が行われる 訳です。実際にはお水送りで送られた水は1年ほどかけて東大寺までたどり つくと言われています。 (閼伽とは梵語のアルガの音写で水のこと。英語のアクアと同じ語源です) 伝説では、東大寺の修二会を考案した実忠和尚が諸神を勧請した時、若狭の 遠敷明神だけが釣りに夢中になっていて遅刻してしまいました。修二会の様 子に感動した遠敷明神は遅刻したお詫びにと若狭からこのお勤めに水を送る ことを約束します。 その時、若狭国の鵜ノ瀬の地の地面の中から白い鳥と黒い鳥が飛び立ち、そ の飛び立った後から霊泉が湧き出したといいます。この水が地中の水路を通 って、東大寺の閼伽井屋に再び湧き出すというわけです。 さて、私は東小浜駅を降りてから県道35号線を南下します。約10分歩いた所 で若狭姫神社にたどりつきます。こことこの先の若狭彦神社、そして目的の 神宮寺は一体のものです。鵜ノ瀬から飛び立った2神を祀るのが若狭姫神社・ 若狭彦神社で、後に、若狭姫は豊玉姫、若狭彦は彦火火出見尊(山幸彦)と みなされました。若狭姫神社を下社、若狭彦神社を上社とも称します。ここ は若狭国の一宮にもなっています。 若狭姫神社でお参りして更に道を南下します。(下というのに上り道なのは これいかに?)社伝によれば若狭彦なる彦火火出見尊と若狭姫なる豊玉姫と の間に武位起命(たけくらおきのみこと)が生まれ、その子孫が大和国造と なって和氏を称しました。若狭の和氏は海人を率いて大和朝廷に仕えたため 祖神である彦火火出見尊・豊玉姫を祀ったとします。神宮寺を建てたのは 和朝臣赤麿(わのあそんあかまろ)で和銅7年(714)のこと。東大寺でお水取 りが始まったのは天平勝宝4年(752)です。 若狭姫神社から20分ほど歩いて若狭彦神社まで来ました。お参りして、更に 南下です。若狭彦・若狭姫の2神は最初鵜ノ瀬のある白石の地にお祀りされ ていましたが神宮寺ができるとそちらにお迎えされました。そして宝治2年 (1248)に若狭彦神社・若狭姫神社が造営されてそちらに遷座、神宮寺は若狭 彦神社・若狭姫神社の別当寺の扱いになりました。なお元の白石の地には 白石神社が鎮座しています。 若狭彦神社から更に10分。やっと神宮寺まで来ました。 仁王門。重文。鎌倉時代末期の作。中の金剛力士像はそれよりやや新しく、 胎中に至徳2年(1385)の墨書があります。(室町時代は1338から)シンプル で美しいフォルムをしています。 そして本堂。これも重文。現在の建物は天文22年(1553)朝倉義景による再建。 幅5間、奥行6間の単層入母屋造・桧皮葺き。基本的には和風ですが、唐風や 天竺風を各所に取り入れ、堂々とした姿に仕上がっています。 本堂奥の院にお祀りされているのは衣冠束帯姿の若狭彦と小桂姿の若狭姫。 いずれも座像。鎌倉初期の作とされます。ここは東大寺同様、神仏習合の地 です。 この寺が最も栄えたのは鎌倉4代将軍・藤原頼経の時で、七堂伽藍二十五坊 を寄贈され、鎌倉幕府勅願寺社7大寺7大社のひとつとされましたが、現在は この仁王門・本堂のほかは開山堂・円蔵坊・桜本坊を残すのみです。しかし 歴代のこの地の領主は常にここを厚く保護しており、故に東大寺と関わりの 深いこの聖地が今日まできちんと残されることになりました。 旅の無事を感謝し、また悠久の日々に思いをはせてお参りをします。そして この静寂な地にしばし心を預けて、一休みです。