元型というのは色々なものがありますが、今回は最後は「王」と「道化」につ
いて述べておきましょう。
王と道化というと、リア王の物語の王と道化は哀しみを湛えています。娘たち
に裏切られ、唯一人助けようとしてくれた娘も死んで、気が狂ってしまった王
に道化は相変わらぬジョークを飛ばしながら付き従っていきます。
王と道化というのは、ある意味で一体のものでなければならないのかも知れま
せん。
河合隼雄氏は道化は王の影であると述べています。王は人間界の支配者として
絶対的存在でなければなりません。しかし絶対的権力を持つということは裏返
すと全てに責任を持たねばならないということになります。時として襲い掛か
る自然の脅威〜天災・病気なども王の責任とされました。
実際にそういうものに対する責任を問われて殺されてしまった王もたくさんい
たことでしょう。しかし王としての特権を守りながら、そのような罪を被って
殺されてくれる存在を作っておく。その為に道化が出て来たのではないかとい
う説が成り立ちます。
その場合、道化は王と一体のものでありながら、あらゆる愚行を行なってよい
存在として成立します。彼は愚者であるが故に他の人が口にすることを許され
ない真実を告げる特権を持っています。彼は愚者であるが故に国家の秩序の枠
を越えた行為を行なうことができます。
日本の歴史の中で「王と道化」の例としてよくあげられるのは豊臣秀吉と曾呂
利新左衛門ですが、正直言ってこれほどに純粋な例はまれでしょう。たいてい
「道化」的立場に立った人は、権力への誘惑に駆られます。逆に道化的立場を
貫いた人は歴史に名前を残していないでしょう。
称徳天皇の下の道鏡や、白河上皇の側に使えた祇園女御、などは最初は道化的
存在だったかも知れません。やはりもっと典型的「道化」を探すには物語の中
に入り込む必要があります。
例えばTVドラマにおける水戸黄門とうっかり八兵衛という組合せは、かなり
きれいな「道化」の例でしょう。八兵衛のおかす失敗は実は光圀自身の失敗の
ようにも見えます。