天徳4年3月30日、村上天皇が清涼殿で女房歌合わせを催しました。
この時の詳しい様子は岡野玲子さんの『陰陽師』(白泉社)7巻を読まれるのが、よいと思います。まさにそういう状況であったようです。
上記「陰陽師」にも書かれていますが、前年天徳3年8月16日、公達が詩合せを行ったので「殿方が詩合わせをするなら、女は歌合わせをしましょう」ということで、この催しとなったものですが、非常に豪華なものとなりました。
「陰陽師」に書かれている北野天満宮の増築は天徳3年2月25日、そして中宮安子(やすいこ)の伯父・興方の死去はこの歌合わせの直前のことのようです。壬生忠見の死去もこの年ですが日付は確認できませんでした。
(ちなみに詩=漢詩、歌=和歌のことです)
この歌合わせは村上帝自ら女房たちの左右のチーム分けを行い、1月前から念入りに準備をして、夜を徹して左右20首ずつ、合計40首の歌が詠まれました。服飾・美術・薫香なども含めて、村上朝の華麗な美の極致を象徴するものであったようです。
村上天皇は卓越した政治能力を持ち平安時代最後の親政を行なった上に音楽や文芸の才能も優れたカリスマ的天皇であったようです。左大臣・藤原実頼、右大臣藤原諸輔も名実ともに天皇の補佐役としての仕事しかしていません。
村上天皇亡き後は「陰陽師」にも出てくる憲平親王が即位して冷泉天皇となりますが、病弱で、藤原兼通・兼家の台頭を許し、政治の実験は藤原北家に移ることとなります。そしてこの病気の原因は憲平に皇太子の地位を奪われた広平親王とその母祐姫、祐姫の父・元方の呪いではないか、などと後世言われることとなるのですが(^^;; 祐姫は村上天皇より長生きしていますので「陰陽師」に出てくる祐姫の怨霊は、本当は生霊ということになります。
この天徳4年はこの歌合わせの後5月4日には安子の父・諸輔が死去、「陰陽師」で頼りなさげに描かれている顕忠が8月22日に後任に任命されています。彼は結局その後5年間右大臣を務めます。そして9月23日(960年10月21日)、内裏が焼亡します。
この時三種の神器の内、曲玉と剣は無事持ち出せたのですが鏡を入れていた箱は焼けてしまいます。しかしその焼け跡(温明殿)から鏡が3枚ほぼ無傷で出てきて、無事新しい箱に収められます。この時初めて、宮中に納められていた鏡が3体あったことが分かりました。ただ、その内の1枚には小さな傷が付いていたことが村上天皇の日記に書かれており、これは日本書紀の一書(第二)にある、天岩戸に差し入れた時にできた傷であろう、ということになったそうです。
この時仁寿殿にあった太一式盤が焼けてしまったというのは日本記略の記事のようです。この時聖剣も48振焼けてしまっています。この焼けてしまった刀の鋳造の任にあたったのが当時まだ天文得業生であった安倍晴明で、これが晴明の歴史上への初登場になるようです。
(これほどの大役を仰せつかるというのは、恐らくは彼が次代のホープとみなされていたからでしょう。なおライバルであり師でもある賀茂保憲はちょうど天文博士になった頃で翌年の改元の作業に携わっています。そして962年に陰陽頭になっています。960年当時晴明は40歳のはずです。なお岡野玲子さんの言うように晴明が橘家ゆかりの人物であったとしたらこの選任には藤原兼家の意志も働いているのかも知れません。)
960年当時の年齢安倍晴明 921-1005 40源 博雅 918?-980 43?村上天皇 926- 967 35藤原安子 927- 964 34藤原兼家 929- 990 32藤原兼通 925- 977 36冷泉天皇 950-1011 11賀茂保憲 917- 977 44三善浄蔵 891- 964 70菅原文時 899- 981 62