承応2年(1653,一説では承応元年)12月20日、下総国佐倉藩印旛郡の君津村・名主総代・木内宗吾(惣吾,宗五郎,などなどとも)が、上野東叡山寛永寺に墓参りの4代将軍家綱に直訴を行いました。
当時佐倉では数年来の不作により大変な飢饉に襲われていました。しかし藩は年貢を緩めることはなく、足りない分を名主が財産を処分して代理で納めてもなお足りず、結果的に滞納になった農家には厳しい処分が行われました。
この事態に宗吾は他の名主とともに、窮状を訴えせめて処分だけでも免除して欲しいと藩に申し出ますが、却下されてしまいます。ここに至り、宗吾は将軍様に直訴する以外ないとして、この日の行動になりました。
最初は宗吾のほか数名の名主が共同で直訴すると言っていたのですが、将軍様への直訴は超御禁制のこと。死罪は免れがたい上、多人数での行動は目立つとして宗吾一人で行動することになります。また直訴に先だって宗吾は妻を離縁、子供たちとともに実家に帰しました。
当時農民がその土地を離れることは、お伊勢参りのような特殊な場合を除いては絶対に不可能なことです。宗吾はあくまで隠密に行動。印旛沼の渡し守・甚兵衛もこれに協力して、本来渡してはいけない沼を死罪覚悟で渡し、宗吾を送り出しました。
将軍様の行列が通りかかります。先導する武士たちが行きすぎて将軍様の駕籠が目の前に来た所で宗吾は飛び出しました。「お願いで御座います、お願いで御座います」
一瞬、将軍の駕籠が止まります。
直ちに宗吾は取り押さえられます。駕籠の中の家綱がそばに控えていた者に短い指示を出します。訴状はその者が取り上げ、宗吾は拘束されました。そして将軍の駕籠が再び動きだし、行列は何事もなかったかのように継続されました。
墓参りが終わった後、家綱は訴状の内容を確認、ただちに佐倉藩の状況を調査報告するよう命じました。
そして佐倉藩の深刻な不作が確認され、そのあと3年間年貢の減免が行われます。農民たちは救われたのです。
しかし宗吾は当然のことながら死罪と決まりました。佐倉藩中の名主たちが助命を嘆願しますが認められず、翌年9月3日、君津村にて磔。村中の者が合掌し念仏を唱えました。
なお、妻子も一緒に磔にされたという説もありますが、親戚預けになったという説の方を採っておきたいと思います。
この木内宗吾(通称佐倉宗吾)の処刑の地の後には、現在宗吾霊堂(鳴鐘山東勝寺,千葉県成田市)が建っており、参拝の人は今も絶えません。
彼の物語は歌舞伎や講談などでも語られています。