1925年2月17日、イギリスの考古学者カーターがツタンカーメン王(トゥト・アンク・アメン)の墓を発見、その中には例の黄金のマスクをした若きツタンカーメン王のミイラがありました。
ツタンカーメンはBC1358に即位し、同1349に18歳で死去した古代エジプトの王です。先王・兄アメンホテップ4世がアトン神を信仰して国内の神事を混乱させたのに対して、彼は元のアメン神崇拝に戻し、国の安定を回復させました。
アメンホテップ4世は宗教勢力の政治への関与を嫌って、それまでの神を全て否定。神殿を破壊して新しい首都アケトアテンを建設し、唯一神アトン・ラーの信仰を強制します。そして自らもアトン神の使いであるとして、イクナトンと名乗りました。この時代は文化的に高いものがあり、アケトアテンの別名アマルナから取って「アマルナ時代」と一般に呼ばれています。
しかし既存宗教側の抵抗は強く、ひょっとするとイクナトンは暗殺された可能性もあるでしょう。彼が32歳の若さで死去すると彼の9歳の弟・ツタンカーメンが次の王に推挙されます。トゥト・アンク・アメンという名前の中に「アメン」の名前が入っているように、彼のもとで元の信仰が回復されます。アケトアテンは破壊され、都はテーベに戻ります。そして、アトン・ラーは悪魔であったということにされてしまいました。
なお、このツタンカーメンの妃はこの付近を描いたマンガを読んだことのある方ならご存じ、アンケセナーメンです。ツタンカーメンとは幼なじみであったともいいます。先王イクナトンの娘であり、ツタンカーメンが死去した後は、大臣アイの妻になります。
なお、先日テレビでイクナトンとツタンカーメンの間にもう一人1年で死去した王がいたという説が紹介されていました。死後、なぜかミイラが女装の状態で埋葬されていたのだといいます。テレビでは天変地異があったため、女神アトン・ラーの怒りではないかとして、それを封じ込めるため、女神の依代として女装させたのではないか、といった説であったようです。
また一部には、このイクナトンによる唯一神の信仰という思想が100年後のモーゼ(BC1230頃)に引き継がれ、彼のもとで原始ユダヤ教が生まれたのではないか、という説もあります。
ツタンカーメンは古代エジプトの新王朝時代、第18王朝に属します。モーゼの兄ラムセス2世は次の第19王朝です。要するに、この時代は第18王朝の末期でした。ツタンカーメン死去の4年後、第18王朝は途絶しています。
第18王朝の初期には逆に男装の女王がいました。ハトシェプスト(BC1500頃)です。当時のエジプトでは女性は王になる権利が無かったのですが、彼女は自分は男と同格であると主張して、男装で政治を執りました。
(この時代、中国はまだ殷の前の夏の時代。アマルナ時代頃に殷が成立する。インドにまだアーリア人は来ていない。ギリシャではクレタ島が栄えていた。日本では農耕が始まり、村が形成され始めた頃である)
さて、閑話休題。
ツタンターメン王墓を発掘したハワード・カーター(1874-1939)は元々画家で、各地の遺跡発掘に壁画模写のため同行している内に考古学自体に興味を持ちました。
1907年カーナボン卿と運命的出会い。卿はカーターに資金を提供。15年間にわたる試掘の末、ついに1922年陵墓の石段を発見。世紀の大発見につながりました。
この墓は王家の谷の中で唯一盗掘リストに現れていなかったもので、純金製の棺桶に純金製のマスク、腕輪・指輪・耳飾り・王冠・杖、それに多数の宝石など3000点以上の副葬品が残されていました。このなかには有名なえんどう豆があり、これはきちんと芽を出してその子孫がアメリカ経由で日本にも持ち込まれ、あちこちの大学などで栽培されています。この豆は豆ご飯を作ると、炊きあげた時は普通に緑なのに時間がたつと赤くなってきて赤飯のようになるそうです。
なお、この王墓発掘のあと、スポンサーであったカーナボン卿をはじめ多数の関係者が死亡、墓を暴かれたのに怒ったツタンカーメン王の呪いではないかという噂が立ちました。
しかし呪いであれば真っ先に死んでいていいはずのカーターはこのあと17年間、64歳まで無事に生き延びています。