従来日本ではこの人を「マホメット」と呼んでいましたが、最近の原音主義の中で「ムハンマド」という読み方が推奨されています。
世界三大宗教のひとつ、イスラム教の開祖は西暦507年1月23日、アラビアのメッカに生まれました。
生まれる前に父を亡くし、母も6歳で亡くして、叔父アブー・ターリブのもとで育てられます。
羊の世話をしたり隊商に参加したりした生活を送り、25歳でハディージャと結婚。二人の間には有名なファティマなど3人の子供が生まれました。このファティマは後にムハンマドの養父アブー・ターリブの息子アリーと結婚します。アリーはイスラム教シーア派の祖です。
ムハンマドが最初の啓示を受けたのは40歳頃のことでした。
夢の中に天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、ムハンマドに「読め」といって神のメッセージを伝えました。不思議な出来事に動揺したムハンマドは長老のワラカに相談しますが、ムハンマドが聞いた言葉は聖書の言葉と驚くほど共通していました。ワラカはそれが間違いなく至高神からの言葉であることを伝え、これからムハンマドに色々な迫害が起きるであろうことを予言しました。
このあともジブリールは何度もムハンマドの前に現れました。この言葉は「コーラン」としてまとめられています。「コーラン」とはジブリールが言ったことば「読め」という意味です。
なお、アラビアでは至高神は「アッラー」と呼ばれていました。
やがてムハンマドはこの神の言葉を近親者や友人たちに伝え始めます。するといつのまにか数十人の集団ができあがってしまい、本人はそういう意図はなかったのですが、それはあたかも教団のような形になりはじめました。
やがて彼らはメッカの他の宗教者たちと対立することになります。そんな中、養父アブー・ターリブと妻ハディージャが相次いで死去。この直後ムハンマドは天界に赴き、聖書の使徒たちと出会うビィジョンを見ます。
そして翌年、彼は争い事の絶えないメッカから、信徒達を連れてメディナに移住しました。これを聖遷(ヒジュラ)といい、この日がイスラム暦の紀元になっています。
メディナで教団は安定を確保。順調に信者も増えます。これを恐れたメッカのクライシュ族は1000人の大軍を送ってムハンマドたちを倒そうとしました。これに対してムハンマドはわずか300名ほどで応戦しますが、この戦いに奇跡的に勝利します。ここから彼らの聖戦(ジハード)が始まることになりました。
メッカ勢力との戦いはこの時だけでなく何でも続きます。また周辺のユダヤ教徒たちとの戦いもありました。ムハンマドはまさに戦いの中に生きた預言者です。「コーランか服従か剣か?」そういうイスラム教の伝統はここに既に始まっています。そして聖遷から8年後、ムハンマドはとうとうメッカの奪回に成功しました。
ムハンマドはその2年後632年この世を去ります。その時彼は最後にメッカを巡礼することにし、礼拝をしてから、付いてきた信者達に「最後の説教」を行いました。
『神は一人の男と一人の女からお前達を造り民族とした。神が愛でるのは敬虔な者である。アラブが非アラブにまさるとか、白人が黒人にまさるとか、そういうことは一切無い。みな平等であって、神は敬神さのみで人を評価するのだ』