スターリン(1879-1953)

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20世紀最大の虐殺者といわれるソ連書記長スターリンは1879年12月21日コーカサスのゴーリで生まれました。本名はヨシフ・ビサリオノビチ・ジュガシビリで「スターリン」は「鋼鉄の人」という意味。

ロシアの革命指導者たちは当局の追求を逃れるためお互いにコードネームで呼び合っていました。レーニンも本名はウラジミル・イリイチ・ウリャーノフ。「レーニン」という言葉の意味は不明だそうです。カーメネフは「石」(本名ローゼンフェルト)、モロトフは「金槌」(本名スクリアビン)。

靴職人の子で15歳の頃から革命に興味を持ち、1898年に社会主義の運動に参加、翌年学校を退学処分、何度も逮捕されて、1902年と1913年にはシベリア流刑をくらっています。

さてロシアの革命は1905年にロマノフ王朝が倒れた第一次革命とその後1917年にポリシェビキが実権を握った10月革命とに分かれますが、この10月革命でスターリンはレーニンらと共に中心的な役割を果たしました。

1922年には共産党中央委員会総書記に就任、1924年のレーニンの死後、党の実権を掌握します。スターリンの中に潜む凶暴性を見抜いていたレーニンは「スターリンだけはトップに付けるな」と遺言しましたが、誰も彼を止めることはできませんでした。

最大のライバルとされたのがトロッキーですが、トロッキーが社会主義革命を全世界に広げようという方針であったのに対してスターリンは現在のソ連の領域で止めて外には広げないという方針を取り、この時点ではスターリンが勝ったのは周辺の国々にとっては幸福でした。トロッキーは1929年には国外追放され、1940年にメキシコで暗殺されています。(スターリンの部下の犯行と言われている)

1928年に農業の集団化に着手。多くのコルホーズ・ソホーズが誕生しますが、その強制的な体制移行に伴い約350万人の農民が死亡したといわれます。

国内の反対勢力も強くなり1934年には彼の右腕といわれたキーロフが暗殺され、これを契機に彼は大規模な粛正に取りかかります。この数年間の粛正だけで100万人の共産党員を含む1000万人ほどの国民が処刑されたり収容所の強制労働で死亡したといわれています。

彼は密告を奨励し、誰もが隣人に密告されるのではないかと恐れおののきながら生活していました。子供が親を密告した例もあり、スターリンはその密告した中学生くらいの子供を全国民の前で表彰しました(両親は処刑済。そのフィルムで笑顔で表彰されていた子供の顔が私の目にこびりついている。その子にとってその時点でその行為は勇気ある正義だったのでしょう。その子がその後どう成長したのか考えると悲しい)。

こんなとんでもない指導者がすぐ退任に追い込まれなかったのは、近くで、もっととんでもない人が現れたからでした。ドイツのヒットラーはソ連と不可侵条約を結んだ上で1939年ポーランドに侵入、第二次世界大戦を引き起こします。ナチスドイツが終戦までに虐殺した人の数は600万人。ポルポトがカンボジアで殺害した250万人を抜いて20世紀の虐殺者「暫定」2位です。(毛沢東と四人組が文革で殺害した人数がまだ明らかになっていないので将来3位になる可能性も。ただ毛沢東らは何度も失脚し実権を握っていた期間が短いのでもしかしたら300万人以下かも)

そしてこの戦争が終わった後、今度はソ連は更にアメリカとの「冷戦」を開始。これが逆にこの独裁政権の寿命をのばす結果になってしまいました。

1953年3月5日脳出血のため死亡。約30年間にも及ぶ長期政権の間に虐殺された人の数は論者によって違いますが、2000万〜5000万人といわれています。

その行動は後のフルシチョフやゴルバチョフらにより厳しく批判されています。


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