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アンドレイ・D・サハロフは1921年5月21日モスクワで生まれました。

第二次世界大戦末期、日本の降伏は時間の問題となっていた頃、アメリカは
近い将来戦争をせざるを得なくなるであろう相手としてソ連を見ていました。
そのころ当初はドイツに対抗するために開発しはじめた原爆が完成。アメリ
カはソ連に対する示威行動の意味を込めて、この超強力な兵器を日本に落と
します。その原爆が落とされた広島・長崎の惨状を見たソ連は、急いで自分
たちも同じ武器を開発しなければ、たいへんなことになると震え上がります。

そこで国内一流の科学者たちが集められ、原爆の製造の国家的プロジェクト
がスタートします。サハロフもこれに参加して、やがていろいろ画期的なア
イデアを出し、中心的存在の一人になっていきました。

そして1949年ソ連は原爆の実験に成功。アメリカがこれに対抗して水爆の開
発を始めるとソ連もすぐ同じことを始め、1952年にアメリカが水爆の基礎実
験に成功すると、ソ連も1953年に本格的水爆の実験に成功。この開発競争に
より、アメリカ・ソ連の両国はお互いに、万一戦争をすることになったら、
両国ともに、とんでもない被害が出ることを認識することになり、逆に戦争
の危険は去りました。そして冷戦が始まります。

初めての水爆実験が成功した時、サハロフはその実験場を厳しい顔で見つめ
ていました。水爆の威力は彼が想像していたものよりずっとずっと大きなも
のでした。おびただしい数の羊が倒れていました。また一人の少女と一人の
兵士が巻き込まれて亡くなりました。そしてやがて、彼は、こういう兵器を
人類は使ってもいけないし、作ってもいけない、という思いに到達します。

彼は1958年頃から、一転して原水爆に反対する運動を始めます。そして、更
には1970年には「ソ連人権委員会」を設立。政府による人権抑圧に対しても
戦うようになりました。

彼の活動の功績に対して、1975年10月9日、ノーベル平和賞が贈られますが、
ソ連は1980年彼をゴーリキに流刑に処します。そしてその流刑が解かれたの
は、ゴルバチョフが登場してからでした。


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