今は亡き「ソ連」(ソビエト社会主義共和国連邦)の首相を長く務めたコスイギン(アレクセイ・ニコライヴィッチ・コスイギン,Алексей Николаевич Косыгин)は1904年2月21日(ユリウス暦によるもので、グレゴリウス暦では3月5日)に、サント・ペテルスブルク(ソ連時代の名前はレニングラード)で生まれました。
(彼の誕生日については新暦3月5日、旧暦2月20日と書いている文献もありますが、グレゴリウス暦で1904年3月5日ならユリウス暦2月21日になります。従って2月21日説のほうが信憑性が高いと判断しています)
ブレジネフ時代を支えた「3巨頭」の就任年代はブレジネフ書記長 1964-1982コスイギン首相 1964-1980グロムイコ外相 1957-1985となっており、この3人の連携が、あの時代の超大国ソ連を支えていました。
コスイギンが13歳の時に二月革命(ロマノフ王朝が倒れる)・十月革命(臨時政府が倒されて、ソヴィエト主導の政権が誕生)が起き、国内は左派の赤軍と右派の白軍による「ロシア内戦」へと突入します。彼はこのうち赤軍に少年兵として参加し各地を転戦しました。4年後(17歳の時)に内戦は赤軍の勝利で終結しますが、終戦後、彼はレニングラードに戻りレニングラード協同技術学校(кооперативном техникуме)に入り、その関係で一時期シベリアのノボシビルスクで作業をしていました。1935年(31歳)でその学校を離れ、地元の穀物工場の責任者に就任します。そして1938年にレニングラード市政委員長(市長)に任命されました。
そして翌年にはソ連中央委員に選出され、ロシア(この時点ではソ連を構成する複数の国家の中のひとつであるロシア)の農業大臣などを勤めたあと1943年からはロシア首相を務めました。
第二次世界大戦後の1946年には今度はソ連の党政治局員に選出され、財務大臣、軽工業大臣などを歴任、数字に強いことからスターリンの信頼を得ました。スターリンの死後は一時期政権から外れますが、フルシチョフが再び彼を登用。国家計画委員会議長などの職に付けます。1964年にフルシチョフが解任されたあとも、元々あまり政争に絡まない純粋に官僚的なタイプであるため、その後の政権の「集団指導体制」のメンバーにもそのまま加えられ、首相としてブレジネフを支える重要な役割を果たすことになりました。
16年にわたり首相職を務めた中で、彼が特に力を入れたのは経済改革でした。彼が首相になった頃、ソ連の経済はかなりひどい停滞状態にあり、これを何とか立て直していくことが彼の責務でした。
彼が目指したのは西欧型の市場原理の導入と、中央管理体制を弱めて地方や各事業体への権限移譲をおこなうことでした。実際にはその成果は必ずしも上がらず、経済改革としては失敗に終わることにはなりますが、それでも国民の所得をかなり引き上げることには成功しています。また彼はソ連への西側資本の進出にも積極的で、ペプシコーラのソ連進出には彼の力が大きかったといわれています。
彼の様々な経済改革の試みは、実はゴルバチョフによる「ペレストロイカ」の原型になったのではという意見もあります。
1980年10月23日に病気のため首相を辞任。同年12月18日死去。76歳でした。
(2011-02-21)