1909年7月6日、極めて長期間にわたりソ連の外相を務めた「ミスター・ニェット」ことアンドレイ・アンドレイビッチ・グロムイコがミンスクに生まれました。
1934年ミンスク農業大学卒業、科学アカデミー経済研究所を経て、1939年に外務省入り。アメリカ局次長・同局長・駐米大使館参事官を経て第二次世界大戦中の1943〜1946年に駐米大使。ここでアメリカとソ連の関係強化に尽力しました。
1946年から1948年に掛けては国連の安全保障理事会代表を務め、この間何度も拒否権を発動。数多くの提案を葬り去りました。「ミスターニェット」の異名はこの時に付いたものです。(ニェット:нетはロシア語のノー)
その後対日講和会議ソ連代表、駐英大使などを経てフルシチョフ時代の1957年に外相就任。以来1985年にシュワルナゼ(現グルジア大統領)にその任を譲るまで28年間に渡り、冷戦時代の困難なソ連の外交を一手に管理しました。その間にソ連のトップはフルシチョフ(56-64)からブレジネフ(64-82)、アンドロポフ(82-84)、チェルネンコ(84-85)、ゴルバチョフ(85-91)と変わっていっています。
1973年には党政治局員、外相を辞めた1985年から1988年までは最高幹部会議会議長も務めました。1989年7月2日死去。1991年のソ連崩壊を見ずにあの世へ旅だってしまいました。
彼の外交手腕の中で最も高く評価されているのはブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代に掛けて。アメリカのキッシンジャー(報道官→補佐官→国務長官)と長期間に渡る厳しい交渉を続け、緊張緩和(デタント)への道を開いたことでしょう。キッシンジャーは個人的にもグロムイコの高潔性を尊敬していたようです。
そのグロムイコに支えられて長期間トップの座を維持したブレジネフが亡くなったあと、ソ連の書記長はアンドロポフ、チェルネンコ、と長老が短期間務めますが、チェルネンコの後任について保守派が若手で穏健なロマノフと手を組んでグリシンを推したのに対してグロムイコはもう一人の若手で革新的なゴルバチョフを支持。これによりゴルバチョフ政権が誕生してソ連は何十年にもわたる停滞の時代から脱却することになります。
このグロムイコ主導による一種の政変劇が無かった場合、ひょっとすると、ソ連ではクーデターが起きて共産政権が倒れ、すさまじい内戦の時代に突入して(今よりもっと)多くの血が流されていたかも知れません。グロムイコのもうひとつの大きな功績です。