ファッションデザイナーのクリスチャン・ディオール(Christian Dior)は1905年1月21日フランスのグランビルに生まれました。1935年から洋服のデザインを始め、最初パリのピジェ、それからルロンで働いていました。
1939年に始まった第二次世界大戦で、フランスは全土をナチスドイツに占領され、戦時中は各地でドイツに対するパルティザンの小規模な戦闘が起きていました。1944年6月に連合軍がノルテマンディーに「史上最大の作戦」を展開、ここから大反撃を行って同年8月20日パリ開放。そして翌年にはドイツ降伏。しかし全土はまさに焦土となっており、人々は食べることが優先でまともに着る服も無い時代でした。女性たちはストッキングが入手できないため、ストッキングをあたかも履いているが如く、絵の具で脚の後ろに線を引いていました。
そんな時代に敢えて、いやそんな時代だからこそ、ディオールは女性たちのための素敵な服を作ろうとしていました。そういうディオールが1946年10月に実業家マルセル・ブサックと出会ったことから自分のメゾンを持つことになります。クリスチャン・ディオール・オートクチュール(*1)・メゾンの設立は1946年12月16日です。
1947年から「ニュー・ルック」と呼ばれることになる新しいコンセプトのファッションを発表し始めます。この年出したのがコロール・ラインとエイトライン。この活動が評価されて、ディオールはニーマン・マーカス賞を受賞します。この年更に香水部門にも進出。「ミス・ディオール」と名付けます。
この「ミス・ディオール」の名前の由来は有名です。ディオールの妹もこの会社に勤めるようになっていたのですが、彼女はひじょうに時間にルーズな性格でした。そしてこの日も、みんなでどんな名前がいいかというのを色々議論していた時、彼女が随分遅れて「ボンジュール」と言って、会議室に飛び込んで来たのです。するとその時誰かが「そうだ、ミス・ディオール」にしようと言いだし、結局この遅刻魔の妹さんの名前が使用されることになりました。香水の中身を作ったのはもちろんジャン・カールです。
翌1948年にはニューヨーク支店を設立。パリに毛皮部門を設立、1949年には高級服店としては初のライセンス事業を始め、ストッキングを販売し始めました。これはディオールが当初から考えていた庶民をターゲットにしたものでした。あるいはディオールはこの時点で来るべき大量消費時代を見据えていたのかも知れません。1950年にはネクタイのライセンス生産も始めています。
ディオールの最大の功績とされるHラインとAラインですが、Hラインは1954-1955秋冬コレクションで、Aラインは1955春夏コレクションで発表されています。彼は1946年の会社設立以来、ほんとにものすごいパワーで新しいデザインコンセプトをどんどん創造してきました。そんな会社に、ピエール・カルダンやイブ・サン・ローランなども入社してきています。1949年の仮面舞踏会で見せた有名なライオンのコスプレの衣装をデザインしたのはカルダンでした。
彼はまだまだ活動したかったのでしょうが、神様は彼にあまり時間を与えてくれませんでした。
1957年10月24日。突然の心臓発作による急逝。まさに働き過ぎによる過労死だったのかも知れません。
なお「ディオール」という会社のまさに看板を失ったこのブランドは、このあと若きイブ・サン・ローランが主任デザイナーを引き継いで、会社を更に数倍大きくしていきます。
--------------------------------------------------------------------(*1)オートクチュール(Haute Couture)高級仕立服。これに対して高級既成服はプレタポルテ(Pret a Porter)という。プレタポルテは「すぐ持ち帰れる」という意味。もちろん高級ブランドのプレタポルテはスーパーでの買い物に慣れた身には信じがたいほど高い。「オートクチュール」という名前はパリの服飾の組合に所属して、毎年のコレクションに作品を発表している、一握りのブランドにだけ許された特別な称号である。