特に40代以上の人にとってはまばゆいほどの大スター、ドリス・デイ(Doris Day, 本名 Doris Mary Ann Von Keppelhoff) は1924年4月3日、アメリカのオハイオ州シンシナティ(大リーグのシンシナティ・レッズの本拠地)に生まれました。父はドイツ出身の音楽教師で、上に兄が2人(リハルト,ポール)いましたが、上の兄はドリスが生まれる前に死んでいます。(下の兄も1958年死去)両親は彼女が8歳の時に離婚しました。
彼女は子供の頃から歌って踊るのが大好きで、12歳の時には友達の男の子とペアを組んでダンス大会で優秀な成績を収め一緒にハリウッドに売り込みにも行っていますが、この時は夢は叶いませんでした。
彼女はできればバレリーナになりたいと思っていましたが、14歳の時に交通事故に遭い、激しい踊りができない身体になって、その道を断念せざるを得なくなります。この時は怪我自体より精神的なショックが大きかったようですが、やがて何事にも前向きな彼女は「踊れなくても歌がある」と考え直して歌の練習に励み、16歳の時には Les Brown and His Band Renown という有名ジャズバンドに参加。
その内バンドのメンバーの Al Jorden と愛し合うようになり結婚しますが、彼の家庭内暴力に悩まされ、子供テリー(後レコードプロデューサー)を産んですぐに離婚。これが1942年、18歳の時でした。2年後、彼女はこのバンドのリーダー Lester Brown(1912.3.14-2001.1.4) の提供した「センチメンタル・ジャーニー(Sentimental Journey)」を歌いこれを大ヒットさせます。
終わってしまった恋を忘却の彼方に追いやって新しい旅に出るというこの歌詞は彼女自身の再出発の誓いであったかも知れません。そして彼女は1946年にはGeorge Weidlerと2度目の結婚をしますが、これは8ヶ月で破局。
しかしこの離婚の直後、彼女のエージェントがワーナーブラザースのオーディションを受けることを勧めます。この結果、彼女は同社と契約するに至り1948年「洋上のロマンス(Romance on the High Seas)」で映画デビューすることになります。24歳。遅咲きの映画スターの誕生でした。
女優としての彼女の評価は上々でワーナーブラザースは彼女を作った映画を1949年に2本、1950年に「二人でお茶を(Tea for Two)」など3本、1951年には5本も制作しました。「二人でお茶を」は主題歌もヒットしています。そして彼女の人気を更に不動のものにしたのは1953年の「カラミティー・ジェーン」でした。
この頃、彼女はMarty Melcher と出会い、やがて彼がドリスのエージェントを務めるようになります(1951年に結婚)。この時期の作品としては1955年の「情欲の悪魔(Love Me or Leave Me)」1956年の「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」などがありますが「知りすぎていた男」の中で彼女が歌った「ケセラセラ(Que Sera Sera)」は世界的なヒットになりました。
Martyは優秀なエージェントで彼女にいい仕事をどんどんやらせましたが、その頃から彼女は少し精神的な疲労を訴えるようになります。そして1960年代半ばころには少し仕事のペースを落とすようになり、1968年にMartyが亡くなると、銀幕からは引退してしまいました。
代わりに彼女が出演することになったのがテレビの「ドリス・デイ・ショー」(1968-1973)でした。ドラマ仕立てのこのショーでドリスは多くの有名人とそのペットを紹介しますが、この番組がその後の彼女の新しい生き方を決めることになります。
1976年に4度目の結婚をしたBarry Comdenと1981年に離婚したあと、彼女は現在カリフォルニア州のカーメルに設立した「Doris Day Animal League」で、家庭内のペットたちの世話の仕方に関する多くの提言を行っています。
「ドリス・デイ・ショー」が終了した後はほとんどテレビへの出演もありませんでしたが、1980年代に1度だけ、かつての人気ホームドラマを彷彿とさせるようなスペシャル番組を撮っています(タイトルを確定できませんでした)。