カーネルサンダース(1890-1980)

↑

1890年9月9日、ケンタッキー・フライド・チキンの創始者カーネル・サンダース(Colonel Harland Sanders)がアメリカのインディアナ州で生まれました。

6歳の時に父が亡くなり母が働きに出るようになりました。すると彼は3歳の弟とまだ赤ん坊の妹の面倒を見なければならないようになり、このため、料理が非常にうまくなりました。

彼が仕事をし始めたのは15歳の時で、最初は電車の車掌でした。その後軍人、消防士、保険の外交、船の仕事、タイヤ売り、ガソリンスタンドなどなど幾つもの職業を転々としますが、やがて40歳の時にケンタッキー州のコービンで、ガソリンスタンドの一角にテーブルを置いて食堂コーナーを始めました。

これはガソリンスタンドに寄った人がついでにちょっと食べていくということで非常に繁盛します。やがて彼はガソリンスタンドの向かいに142席のレストランを作り、ほんの数年の内に州内でも評判の店になります。「うまいものの店」の本などにも取り上げられ、州知事からも表彰されました。

ところが店を始めてから20年ちょっとたった1950年代の初め、高速道路が作られて車の流れが変わり、コービンの町にはあまり車がやってこないようになってしまいました。もう年は60すぎ。年金ももらえる年齢に達しています。カーネルは商売も潮時だなと感じ、店をたたむ決意をします。

しかしその時、奥さんが「人が来なくなったのなら、人のいる所に売りに行けば?」と言ったのがきっかけであったとも言われます。彼は64歳の時、そのレストランで最も評判の高かったメニューであるフライド・チキンをワゴン車につんであちこちの町を回り、各地のレストランで試食してもらって気に入ってくれた店にフランチャイズになってもらい、製法を教えてチキン1本に付き5セントのマージンをもらう契約をするという商売を始めます。

この新しいアイデア商法はうまく行きました。1952年ユタ州で第一号の契約店を得た後、約10年間に全米で600のレストランと契約を結ぶことに成功しました。

このビジネスが評判になり始めた頃、彼はテレビ局から、このフランチャイズのオーナーとしてテレビに出て欲しいという依頼を受けます。彼はそういう改まった場所に出ていくにはモーニングを着て行かねばと思いましたが、その時冬であったのに彼は夏用の白いモーニングしか持っていませんでした。しかし無いよりはましであろうとそれを着て出ていきますが、やはりテレビ局に入るなり、大爆笑をとってしまいました。

「いや、これしか持っていなかったものですから」と言い訳するカーネルでしたが、結果的にはこの時の、白いモーニングを着て老眼鏡を掛けた白髪のおじさん、というのが彼のトレードマークになってしまいました。

74歳の時、1964年、彼はこの商売の権利をジョン・ブラウン2世に売却、自らは一線から退いたものの、役員としてブラウンの会社に残りました。ブラウンはまた商才のある人で、このチェーンを急成長させ海外にも進出。1969年までに全世界に3500のフランチャイズ店をつくりました。

その後、ケンタッキー・テライド・チキン(KFC)は1971年Heubleinに買収されますが、そのHeubleinが1982年RJRナビスコに買収されてその傘下に入り、1986年には今度はペプシコーラに買収されます。この時の値段は8億4千万ドル(900億円)。サンダースがブラウンに売却した時の値段は200万ドル(7億円)でした。

(その後1997年にKFCはペプシコ本体から分離され別会社とされた。なお日本KFCは三菱商事との合弁である)

カーネル・サンダースは1980年に白血病のため死去しました。彼がフランチャイズの仕事を始めてから営業のために走破した距離は40万キロ。世界を10周する距離でした。享年90歳。2度ビジネスを成功させた偉大な人物でした。今は彼の像が世界中のKFCの店頭で微笑んでいます。その老眼鏡は一般には本物を使うため、しばしばファン?に取られてしまうのだそうです。


Dropped down from 今日は何の日.
↑
(C)copyright ffortune.net 1995-2016 produced by ffortune and Lumi.
お問い合わせはこちらから