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↑ チャップリン(1889-1977)


1889年4月16日、喜劇役者で映画製作者としても活躍したチャールズ・チャ
ップリン(Charles Spencer Chaplin)がロンドンにて生まれました。お父さ
んのCharles Chaplin(彼は父と同名であった。英米ではしばしばこういう
名前の付け方が行われる)はミュージックホールの歌手、お母さんのHannah
もミュージックホールのダンサー兼歌手でした。

チャールズが生まれた翌年両親は離婚。父はアル中であったともいいます。

チャールズと兄のシドニーは母の許で育てられますが、その母が病気でダウ
ン。チャールズが5歳にして母の代役で舞台に上がったりもしますが、結局
ハンナは失業。病気はいっこうに良くならず、結局兄弟は孤児院に入ること
になります。

9歳の時、母がやっと病気から回復し3人はまた一緒に暮らせるようになりま
す。母はお針子として生計を立て、シドニーは電信技師をして暮らしを助け
ていました。そしてチャールズはミュージックホールなどに出演。やがて旅
芸人の一座に入ります。

しかしその後母はまた病気でダウン、チャールズは幾つかの劇団を渡り歩き
やがてシドニーが彼のマネージャー役をするようになります。そして17歳の
時、Fred Karnoの一座と契約。若手スターとして注目されるに至ります。

この一座でアメリカやカナダを巡業する中、彼の人気はどんどん上がってい
きます。そして24歳の時、Keystone撮影所のMack Sennettの長年に亘る勧誘
にこたえてKarno劇団を退団。映画の世界に入りました。彼が出演した最初
の映画は「Making a Living」(1914.02)です。

結局この年チャップリンは35本の映画に出演。翌年はEssanay社に移って14本
の映画に参加、更に1916〜1917年にはMutualに移って12本の映画に関わりま
した。この間チャップリンの報酬はうなぎ昇りに上がって行き、そして彼を
使った映画会社も更に膨大な収益を上げました。

1918年にはFirst National(後Warner Bros.)、1919年にはUnited Artistsで
仕事をしています。そして1920年から21年に掛けて初の長編「Kid」を制作
しました。翌年チャールズはロンドンから母を呼び寄せ、ビバリーヒルズの
豪邸に住むことになります。

1923年チャップリンは最初の悲劇「パリの女」を制作。これはチャップリン
が全ての制作過程を自分自身で行った作品でもありますが興行的には不評で
した。しかし彼はめげずに翌年「黄金狂時代」を制作。これは大成功で前作
の失敗を十分に取り戻しました。

その後押し寄せるトーキーの波の中、チャッブリンは「サーカス」「街の灯」
「モダンタイムス」などを制作。結局この「モダンタイムス」(1936)が彼の
最後の無声映画作品になります。そしてこの時期、チャップリンはアメリカ
政府からの弾圧(*1)を受けるようになり、それに迎合したマスコミも彼を
執拗に攻撃。彼は世界各地をさまよいながら映画製作を続けました。

トーキーになってからの彼の作品は非常に少数です。それは下記の4本のみ。

『独裁者(Great Dictator)』(1940)
『殺人狂時代(Monsieur Verdoux)』(1947)
『ライムライト(Lime Light)』(1952)
『ニューヨークの王様(King in New York)』(1957)

チャップリンはライムライトの撮影終了とともにアメリカを離れ、スイスに
移住してしまいました。『ニューヨークの王様』の撮影はロンドンで行われ
ています。

誰にも相手にされなくなったかつての名コメディアンが若い女優の卵をスタ
ーに育て上げる。「ライムライト」の涙無しでは見れないストーリーは自分
を育て上げてくれた、そして自分を追い出そうとしているアメリカという国
への複雑な思いも底層に流れているのかも知れません。

1975年母国イギリスは彼にナイトの称号を贈ります。

そして1977年12月25日永眠。

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(*1)なぜチャップリンはアメリカを追放されたか

この映画界に対する大規模な弾圧はマッカーシー旋風と呼ばれています。
マッカーシー上院議員が中心となって「共産主義的」とみなした文化人に
対して、極めて厳しい糾弾を行ったものです。この時期アメリカの自由な
文化は瀕死の状態に陥ることになります。

「ローマの休日」「欲望という名の電車」「エデンの東」といった名作も
この旋風の犠牲になったり、その間をかいくぐって制作されたりしていま
す。マッカーシー旋風で標的にされた映画人は300名を越したといいますの
で、ほんとにひどい状況であったようです。アメリカは文化大革命の悪口
など言えたものではありません。

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スイスに移住してからのチャップリンはなかなか人と会おうとしなかったと
いいます。萩本欽一さんなどもスイスに彼を訪ねた時、入り口で何時間も待
たされて切れてしまい、壁越しに石を投げ込んで大声で罵倒したら、それで
気が付いたように招き入れてくれたとのこと。むろん彼はとてもいい感じの
人であったそうです。

何度もの女性関係の裁判(離婚訴訟や認知訴訟)、そしてアメリカでの不当
な攻撃などで、やはり相当の人間不信に陥っていたのかも知れません。



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