F1ドライバーとして著名なアラン・プロスト(Alain Marie Pascal Prost, OBE)は1955年2月24日、フランスのサンシャモン(St Chamond)で生まれました。
(*)OBE 大英帝国勲章Officer級
14歳の時に日曜日に家族でお出かけした時に乗ったカートが彼の心を魅了しました。それから盛んにカートを運転するようになり、1973年にはフランスとヨーロッパのジュニアカート選手権で優勝します。彼の堅実な走り方はこのカートレース時代に「壊したら代わりを買えないから慎重に走らなくては」と思って走っていたために生まれたとも言われています。
やがて自動車レースに転じ、F3を経て1980年にマクラーレンからF1デビューを果たしました。そして1985年、1986年と2年連続でチャンピオンシップを制しました。
日本では1987年からF1の中継が始まりましたが、当時日本の視聴者がとりわけ注目したのがこのプロストと、アイルトン・セナ(Ayrton Senna,1960-1994)でした。
プロストの慎重な走り方に対してセナの勇猛な走り方は好対照で、それぞれに根強いファン層が形成されていました。
プロストは1981-1983年にルノーで活動したあと1984年マクラーレン復帰。そして1988年にセナがマクラーレンに移籍してきて2人はチームメイトとなりました。しかし両雄並び立たずということばの通り、ここから2人の確執が始まったのです。
1989年の日本GPでは追い抜こうとしたセナをプロストがブロックして接触し、プロストがリタイア。セナはトップでゴールしますが失格となりました。この結果、この年はプロストがチャンピオンシップを取りますが、両者にとって後味の悪い物になりました。ここでもしセナのゴールが認められていればセナが2年連続の優勝の可能性もありました。(セナは1990-1991で2年連続優勝達成)
プロストは1990年にフェラーリに移籍しますが、その後もふたりの対立は続きこの年またもや日本GPで今度はセナがプロストに故意にぶつけてリタイアとなり、しかもセナがあれは昨年の仕返しだなどと発言したことが問題になります。
1991年はフェラーリのマシン制作ミスもあり不振で年の途中で離脱。翌年は解説者などをしながら休養。そして1993年にウィリアムズに参加して復帰すると次々と勝利をおさめ、健在ぶりをアピール。ファンを歓ばせました。
しかし翌年またもやセナがウィリアムズに移籍することになったのを機に引退を表明。1993年の最終戦オーストラリアGPではセナが1位、プロストが2位になりますが、この表彰台で両者は握手を交わし、長年の対立に終止符を打ちました。この年のチャンピオンシップはプロストが取得。4度目の総合優勝となりました。
しかしそのセナは翌年のサンマリノGPで事故死。結果的には両者和解の表彰台が、プロストにとってもセナにとっても最後の表彰台になったことになります。
セナの死後、プロストの引退の一因がセナとの確執であったからということでプロスト現役復帰説が流れますが、本人はそれは絶対に有り得ないと否定します。プロストはセナの死について「自分自身の一部が失われたようだ」と語りました。彼はセナの葬儀でも棺を担ぐ役をかって出ています。
プロストは1997年には今度はリジェを買収してチーム・プロストと改名しチームオーナーとしてF1に戻ってきましたが、あまり運営の腕はなかったようで成績不振のまま2001年に解散しました。
そしてその後は氷上レース「アンドロ・トロフィー」に出場したりしています。
F1通算51勝の記録は2001年にシューマッハに破られはしたものの、F1史上に大きく残る記録です。