作曲家のチャイコフスキー(Петр Ильич Чайковский,ペーテル・イリイチ・チャイコフキー)は1840年5月7日、ウラル地方のボトキンスク(Воткинск)という町に生まれました。お父さんは鉱山の技術者でした。
小さい頃から音楽の才能を示していましたが、はじめは親の希望もあって役人を志し法務省につとめていました。しかし音楽への情熱は抑えきれず22歳になった1862年に役所を退職してペテルブルグの音楽院に入学。ここを主席で卒業したあと1865年にはモスクワ音楽院に教師として移籍。この年、最初の交響曲「交響曲第一番」を作曲しました。
その後、モスクワで「交響曲第二番」や「ロミオとジュリエット」、そして名曲中の名曲のひとつである「ピアノ協奏曲第一番」などを作曲しています。
「ミドシラ・ミドシラ・ミドシラソラシシド」という、ピアニストが鍵盤に指を全力で叩き付けるかのような緊張感あふれる強烈なイントロの後、一転して「ソミレ・ドミーレファーミシド・ラレーミラ」といったロマンティックで明るいメロディーラインが続いていくこの曲は、多くのピアニストたちの名演で有名ですが、日本ではずっと以前に、中村紘子さんがカレーのCMで弾いていたのを記憶している人も多いでしょう。
チャイコフスキーは1877年にアントニーナという女性から熱烈な求愛を受けて結婚。しかしこの結婚生活は両者の性格の違いから4年で終止符を打つことになります。その後はあまり演奏旅行などで遠出することが少なくなり創作活動に専念するようになったといいます。
チャイコフスキーはまたバレエ用の音楽にも優秀な作品を残しています。最初の作品は1875年の「白鳥の湖」ですが、この作品は公演が大失敗であったため、ショックを受けた彼はその後ずっとバレエ作品を書きませんでした。しかしその「大失敗作」を蘇らせて現代につながる名作に変えてしまったのがバレエ史上に輝かしい名前を残す天才振付師マリウス・プティパでした。
プティパは「白鳥の湖」の初演時の失敗要因を全て改善し、十数年ぶりにこの作品を大ヒットさせることに成功しました。そしてその勢いにのってチャイコフスキーに新作を書いてくれるよう熱烈に依頼、彼も心を動かされて「眠りの森の美女(1890)」「くるみわり人形(1892)」を書き、両者ともプティパの演出で大成功を収めました。
1893年にチャイコフスキーは「交響曲第六番(通称:悲愴)」を完成させますがその初演のわずか一週間後1983年11月6日、チャイコフスキーはコレラのため急死しました。享年43歳。