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ナイチンゲール(1820-1910)
5月12日は「クリミアの天使」と言われ、後に近代看護学の普及に尽力した
ナイチンゲールの誕生日で「看護の日」(ナイチンゲール記念日)になって
います。
フローレンス・ナイチンゲールは1820年5月12日、両親の新婚旅行中のフィレ
ンツェ(フローレンス)で生まれました。今の日本で新婚旅行中に子供が生
まれたなどといったら「そりゃまた随分早いですね」ということになります
が、当時の貴族の場合はごく普通のことでした。しかも彼女は第一子ではな
く次女。お姉さんのパーシノーブもやはり新婚旅行中の1819年ナポリで生ま
れています。つまり当時の貴族の新婚旅行というのは、非常に長期のもので、
フローレンスの両親の場合3年間にも及んでいます。
フローレンス・ナイチンゲールは一般にはクリミア戦争で敵味方の区別なく
怪我人を看護した博愛の看護婦、というイメージを持っている人が多いので
すが、実際の彼女はそれとはかなり隔たったものです。
まず彼女は「神の声を聞いた人」です。彼女は生涯に4回(1837,1851,1854,
1861)神の声を聞いており、クリミアに赴いたのは、神の命に従って奉仕を
するためでした。
また、彼女は近代看護学・衛生理論の確立者の一人であり、また数学者でも
あって、近代統計学の発展に貢献しています。これは彼女が自分が考えた
看護・衛生学の手法をみんなに納得させるために統計を頻繁に利用したため
です。
彼女の父はウィリアム・エドワード・ショー、母はフランシーズ・スミスと
いい、いづれもイギリスの上流階級の家の出身で1818年に結婚、ヨーロッパ
大陸に新婚旅行に行って、その途中で二人の子供をもうけました。帰国は
1821年です。
当時の上流階級では女性にはあまり教育は行わず、早く結婚して夫に仕えて
いればよいという風潮がありました。しかし伝統のあるナイチンゲールの苗
字を継いだ二人の父ウィリアムは、女性にも教育は必要であるという考えか
らこの姉妹にイタリア語・ラテン語・ギリシャ語などの外国語をはじめ、
哲学・数学・天文学・経済学などの本格的な教育を受けさせました。
そんな中運命の1837年2月7日。フローレンスは神の声を聞きます。神は彼女
にこう言いました。『私の所に来て奉仕しなさい』しかしその時彼女にはど
うすれば神様に奉仕することができるのか分かりませんでした。
彼女がその解答を見つけたのは7年後の1844年、24歳の時でした。彼女は修
道女のように病院で病気やけがの人の世話をしたいと言い出します。そして
翌年、従兄のヘンリー・ニコルソンの求婚を断って近所のサリスベリの町の
病院に入って仕事をしながら看護の勉強を始めました。1847年からはローマ
の保養所に移り、ここでその所長のシドニー・ハーバートと出会います。
彼女はその後1849年にはエジプトに行ったあと1850年から1851年にかけて2回
ドイツの看護学校に行って、はじめてシステマティックな看護理論を学びま
す。そして1851年「他人の評価を気にせず神に奉仕しなさい」という2度目
の神の声を聞いて、貧しい人・病む人たちへの手を更にさしのべていきます。
1853年イギリスに戻っていたフローレンスは、ロンドンの貧困女性病人援護
の会の会長に推されます。そして1854年。イギリスはクリミア戦争に出兵し
ます。この時、シドニー・ハーバートが軍務大臣になっていました。
戦場で多くの兵士が満足な手当も受けられないまま死んでいっていました。
(ほんの50年くらい前まではどこの戦争でも一般に戦死者より戦病死者の方
が多かった)。シドニーは彼女にこの戦争の戦病者・戦傷者の看護を依頼し
ます。フローレンスはただちに38名のボランティアの女性を組織して、戦地
に向かいました。34歳でした。
現地に行ってみるとそれはひどいものでした。彼女らのチームは野戦病院の
衛生環境を強引に改善し、死亡率を数パーセント下げてみせました。この時
彼女はチームのやり方を軍の首脳部に納得させるために彼女が発明した統計
グラフを使用しました。これは当時としては非常に独創的なものでした。単
なる数字ではなく視覚に訴えるものの説得力は強く、彼女の考案したグラフ
の様式は今でも使われています。彼女はこの手法の考案者として後に英国統
計学会の会員になり、米国統計学会の名誉会員にもなっています。このクリ
ミアで彼女は3度目の神の声を聞きました。
帰国後彼女は状況をビクトリア女王に報告した上で、今後の軍役における衛
生管理についても助言をしました。しかしこのクリミア戦争ではさすがに激
務がたたって彼女はかなり体を壊し、後々までそれが響くことになります。
この頃から彼女は夜の時間に文筆活動をするようになります。昼間は看護活
動や後身の指導に当たり、夜は本を書くというのは大変な負荷ですが彼女は
公的な場所への出席をできるだけ減らして、そういった時間にあてていきま
した。彼女は生涯に150の本と12000通の手紙を書いています。その手紙の大
半が世界各地から看護と衛生に関して送られてきた質問状への回答でした。
1860年6月24日にはナイチンゲールの名前を冠した看護学校がロンドンにで
きました。彼女はその学校での指導要領などにも細かいところまで注意をは
らいます。翌年にはアメリカから勃発した南北戦争での衛生管理について
質問を受けています。その年彼女は4度目の神の声を聞きました。
1872年には国際赤十字のアンリ・デュナンがナイチンゲールを高く評価する
声明を出しました。1887年には英国看護協会の設立に助力しました。そして
1907年には女性としては初めて、メリット勲章を授与されました。そして
1910年8月13日、90歳の高齢で亡くなりました。
彼女は25歳の時の最初の求婚の他に2度プロポーズをされています。2度目
はサリスベリで駆け出しの看護婦だった時ですが、散々悩んだ末、上流家庭
の奥方におさまってしまえば「神様への奉仕」ができないと結論を出し、断
っています。3度目は38歳の時ですが、彼女はその求婚者を姉のパーシノー
プに譲って(!!)しまいました。
彼女は病人を救うのは宗教者の愛よりも衛生環境であるとして、近代的な看
護理論と病院の衛生管理の指導・普及に多大な貢献をしました。彼女はまた
自然現象のみでなく社会現象も数字で把握することができるのだということ
を実証してみせ幾つかのグラフを発明しました。彼女はまた女性にも家庭に
引きこもるだけでなく社会に出て積極的に活動する生き方があるのだという
ことを実践してみせてくれました。彼女はそういう意味でクリミアの天使で
あっただけでなく、近代思想家でもあり数学者でもありフェミニストでもあ
りました。
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