その名前がそのまま「皇帝」の代名詞になるのは、カエサル(シーザー)とナポレオンだけでしょう。
フランス革命の最後を締めくくった皇帝ナポレオン・ボナパルト(NapoleonBonaparte)は1769年8月15日コルシカ(コルス)島に生まれました。
この島の名前はイタリア語でコルシカ、フランス語でコルスといい、昔から両者の間で領有権をめぐって争いがありました。ナポレオンの父は最初は島の独立運動を進めていた Pascal Paoli の副官を務めていましたが、後にフランス側に転向。一家はフランスに移住し、ナポレオンと兄のジョゼフを陸軍の学校に入れます。
ナポレオンは幼年学校・士官学校で優秀な成績を修めます。士官学校では砲兵科をわずか11ヶ月で卒業しています(通常は4年)。士官学校の雪合戦でリーダーを務めた時に非凡な指揮を見せたことは伝記などで有名です。1785年に陸軍の砲兵仕官として任官しますが、その直後1789年7月14日フランス革命が勃発しました。
革命直後の激しい政治の流れの中で彼は急進派のロベスピエールに近い位置にありました。1793年には革命派と反革命派が激しく対立するトゥローンに派遣されます。派遣された時はまだ大尉でしたがすぐに少佐に昇進。そしてここで反革命軍を破る大活躍を見せて、少将に昇進しました。まだ24歳です。
しかし翌年「テルミドール(熱月)の反動」でロベスピエールが処刑されると彼も連座して逮捕され収監されます。しかし更に翌年「ヴァンデミエール(葡萄月)の反乱」が起きて王党派が武力闘争をはじめると、政府はこの混乱を収めるためにナポレオンを釈放し、鎮圧の指揮を執らせました。この功績によりナポレオンは中将に昇任します。
またこの収監されていた時に知り合ったのが、ジョセフィーヌでふたりは1796年に結婚します。
同年ナポレオンはオーストリアとの戦いにおけるイタリア経由の軍の司令官に任命され、連戦連勝でウィーン近くまで侵攻します。そして独断でオーストリアとの講和条約を締結。これによってフランスはイタリア方面に広大な領土を得ることもでき、国民は凱旋将軍ナポレオンを熱烈に歓迎します。
ここにきてフランスにとって非常に気になる存在が大英帝国でした。ナポレオンは、イギリスの力を削ぐため、イギリス本土とその力の供給源であるインドとを分断するため、1798年エジプト遠征を敢行します。
しかしイギリスはそのフランス遠征軍の補給路を断ち、彼らをエジプトに孤立させてしまいました。更にはオーストリアがイタリアでのフランス領を奪還、フランス包囲網が形成され、エジプトどころかフランス本国が危機に瀕しました。
ここでナポレオンは自軍をエジプトに放置したまま、僅かな側近ととともにフランスに帰還(本来は重大な軍務違反)。クーデターを起こして政治の実権を掌握。自ら第1統領に就任して、事態の打開を図りました。
「ブリュメール(霜月)のクーデター」で、これをもってフランス革命は終了したとみる人が多いです。
ナポレオンはフランス包囲網を打破するための策を次々と打ちます。
まずは「アルプス越え」の奇策でイタリアに入りオーストリア軍を打破、この地をふたたびフランス領にしました。またドイツ方面でもホーエンリンデンの戦いで勝利。オーストリアは和平に応じ、ライン川左岸がフランスのものとなりました。1802年にはイギリスとアミアン和約を成立させ、とりあえずの対立は回避されました。
この第1統領時代はナポレオンの黄金期といえます。
彼は内政面でも非凡な才能を発揮して種々の改革を実行しています。
革命で混乱していた経済を立て直すための施策を次々と実行。フランス銀行を設立して貨幣の安定を図り、フランス民法典を制定して法治国家としての体制を整えました。教育制度の整備なども進めています。
このような政策によりフランス国内は少しずつ落ち着きを見せるようになってきましたが、一方で反フランスの動きや王党派の抵抗もまだ根強く残っていました。
そのため彼は次第に権力集中を強めて行き、1802年には終身統領、1804年5月18日には皇帝に就任しました。
1805年イギリスとのトラファルガーの海戦で敗北はしたものの、その後のオーストリアとの戦争に勝利(凱旋門はこの戦勝を記念して建設されたもの)。1806年にはプロイセンとの戦いに勝利し、ナポレオンは兄ジョゼフをナポリ王、弟ルイをオランダ王に任命します。かくして1807年頃にナポレオンの帝国はヨーロッパのほとんどの地域にまで広がりました。
1808年にはヨーロッパ本土で唯一フランスのものになっていなかったスペインに介入しますが、イギリスの後ろ盾を得たスペイン軍に敗北。これを見てオーストリアは再度フランスを攻めますが、これはフランスが辛勝。この講和ののち、ナポレオンはオーストリア皇女マリー・ルイーズを皇后に迎え入れることにし、ジョセフィーヌを離別しました。
マリー・ルイーズは1811年男の子を出産。ナポレオンはこの子をローマ王の地位に就けました。
そして1812年、ナポレオンはロシア遠征を始めますが、これはナポレオンにとって辛く厳しい戦いとなりました。見るべき戦禍も得られないまま何十万もの兵を失います。そして疲労困憊して帰国したナポレオンを見て周囲の国が再度フランス包囲網を形成して攻勢に出ました。
1814年4月11日、彼は退位に追い込まれます。そして地中海の小さな島エルバ島の領主として追放されました。フランスでは王政復古がおこなわれルイ18世が国王に就任しました。
しかしルイ18世の復古政策は国民の反発を招きました。またナポレオン後のヨーロッパをどうするか決めるウィーン会議は「会議は踊れど会議は進まず」で全く話が進展しませんでした。
その機運を察知したナポレオンはエルバ島を脱出し、パリに帰還して皇帝に復帰します。自由主義で融和的な新憲法を制定して、各勢力の集結を図りますが、ワーテルローの戦いで敗れ、彼の政権は「百日天下」で終了してしまいました。
この戦いの後、ナポレオンは大西洋の孤島セント・ヘレナに流され、1821年5月5日、そこで亡くなりました。51歳でした。死因については砒素による暗殺説も昔から囁かれています。