1755年11月2日、フランス革命の主要登場人物マリー・アントワネット(Marie-Antoinette)が、オーストリア皇帝マリア・テレジア(1717-1780)と夫のトスカナ大公フランツ1世との間に生まれました。
フランツ1世 +―ヨゼフ2世‖――――――+―レオポルド2世―フランツ2世―マリー・ルイズマリア・テレジア +―アリー・アントワネット ‖‖ ナポレオン1世ルイ16世
※時々フランツ1世とフランツ2世を混同し、マリー・ルイズがマリー・アントワネットの妹になっている系図を見ますが、実際には上記のようになっていて、マリー・ルイズ(1791-1847)はマリー・アントワネットの甥の娘になります。マリー・ルイズはマリア・テレジアが亡くなって11年後に生まれています。
1770年4月、14歳でルイ15世(1710-1774)の孫の王太子ルイ(1754-1793)に嫁ぎ、やがて15世が亡くなり、夫ルイが即位してルイ16世(在位1774-1792)となるとマリー・アントワネットは王妃となりました。(16世の父は1765年没)
当時は太陽王と呼ばれたルイ14世が作り上げた王朝文化の余香がまだ残っていた時代、マリー・アントワネットは優雅な宮廷生活を送っていましたが、時代は急変しつつありました。
ルイ14世の晩年頃から既に陰りを見せていた国家財政が、ルイ15世時代のポーランド継承戦争・オーストリア継承戦争・七年戦争などで更に逼迫していました。ルイ16世はこれをなんと建て直すべく、はじめテュルゴー(A.R.Jacque Turgot)を財務総監にして国政改革に力を入れ、それが貴族・僧侶の抵抗で1776年辞任に追い込まれると、今度はネッケル(Jacque Necker)を財務長官にして、改革路線を更に推進します。
しかし彼に対しても貴族・僧侶の抵抗は強く1781年、彼も辞任に追い込まれてルイ16世は苦境に立たされます。一方では民衆側はなかなか進まない改革にイライラしており、このネッケル解任は彼らの動きを制御の効かないものへと押し進めていきました。
そんな時「首飾り事件」(1785)が起きました。
当時ラ・モット伯爵夫人と自称する女性がパリの社交界に出没していました。彼女は王妃マリーアントワネットのお気に入りであるとの触れ込みでした。そのラ・モット伯爵夫人が、ストラスブールの大司教にこういうことを言います。
『実は今パリに来ている宝石商が160万リーブルのダイヤの首飾りを持っています。王妃がこれを買う意向なのですが、さすがに大金なのでお金を用意するのに時間がかかります。そこであなたが王妃の代理としてこの首飾りを受け取って頂けませんか?私が確かに王妃にお届けして、あなたのお願いの義もお伝えしますので』
大司教は王妃とコンタクトが取れると聞いて大喜びでこの役目を引き受け、宝石商も王妃のお買いあげと聞き、しかも、話を持ってきたのが大司教ですから信用してこの高価な首飾りを渡してしまいました。
しかし、宝石商が聞いていた支払いの期限が来てもお金は支払われません。そこで宝石商はヴェルサイユ宮殿に赴き「恐れながら...」と言いますと、マリーアントワネットはそんな話、寝耳に水なのでびっくりします。
結局調べてみると、ラ・モットなどという名前の伯爵夫人はそもそも存在せず、完璧な詐欺事件であったことが判明しました。
この事件に関してマリー・アントワネットには何の責任も無いわけですが、この事件は国民に大きな衝撃を与えました。
「王妃の名前を騙れば、そんな高額の買い物ができるのか?」「国民がこんなに苦しんでいるというのは、王妃はそんな贅沢をしているのか?」
これでマリーアントワネットの人気は急落してしまい、彼女が演劇を見に劇場へ行くと、観客の中から激しいブーイングが起きたりして、彼女は劇場へ顔を出せなくなります。そしてこんな歌が巷で流行りました。
羊飼いさん、羊飼いさん、雨が降ってきましたよはやく羊たちをおうちに連れて行ってあげなくちゃ
羊飼いとはマリー・アントワネット、雨というのは革命の予感です。しかし政治的な感覚の弱い彼女には、まだ事態の深刻さは充分認識されていませんでした。
1787年2月22日、打つ手がなくなったルイ16世は名士会を召集しますが、この会議では手に負えません。3ヶ月後、名士会は解散して、三部会が招集されることになりました。1615年以来、なんと172年振りの招集です。
1788年にはネッケルが国民の声に押されて再任され、1789年1月、三部会の選挙が行われ、5月5日に会議が開かれましたが、ここでも平民代表と貴族代表の対立は解決できず、平民代表は同20日、テニスコートの誓いで、強硬路線を確認しました。
7月11日、貴族たちの圧力に押されてルイ16世が愚かにもネッケルを罷免してしまいますと、国民たちの怒りは爆発しました。
1789年7月14日、市民たちがバスチーユ監獄の付近に集結しはじめます。急を聞いた貴族の一人はルイ16世に進言して「すぐ軍隊を派遣して市民を解散させないと大変なことになる」と主張しますが、ルイ16世は、ことの重大性を認識できませんでした。そこで彼は王よりはまだ少しは話が理解できそうに思えた王妃の所に行って王を説得して欲しい、と言おうとしたのですが....
マリー・アントワネットは彼がノックもせずにいきなり部屋に入ってきたことを「礼儀がなっていない」ととがめ、話を聞こうともしなかったといいます。
彼は「船が沈もうとしている時に礼儀を問うのか?」と怒りの捨て台詞を吐いて、その場を去り、後に改革派の中心人物のひとりとなりました。
ルイ16世が何も対策を取らないまま市民たちはバスチーユ前にあふれ、やがて人々は監獄になだれこんで、そこに囚われていた囚人達を解放します。
(この時、解放された囚人の中に政治犯はおらず、強姦魔と詐欺師だったらしい)
このパリのバスチーユ襲撃に呼応してフランス各地で市民の蜂起が相次ぎました。やっと事態を飲み込めたルイ16世は16日ネッケルを再々任します。
しかしもう歴史の歯車を止めることはできませんでした。
8月4日、国民議会は「封建的特権の廃止」を宣言、更に26日有名な「人権宣言」(La Declaration des Droits de l'Homme et du Citoyen) が出されます。
10月5日には女性たちが集結してヴェルサイユから国王夫妻を拉致し、パリのチュイルリー宮に軟禁しました。
1790年には貴族制の廃止が決定され、革命がどんどん進行していきますが、ここで国王夫妻にとって愚かでかつ致命的な事件が起きました。
1791年6月20日国王夫妻はオーストリアへの亡命を企てひそかにパリを抜け出します。彼らはオーストリアとの国境のすぐ近くヴァレンヌまで逃げたのですが、あと少しの所で21日、発見され拘束。25日にはパリに連れ戻されました。
この事件を指して民衆は『パン屋のおやじとかみさんを連れ戻した』と言いました。しかしその言葉以上に国民はショックを覚えました。
「国王はフランスを見捨てるつもりだったのか?」
と。そしてこの事件は既にほとんど地に落ちていた国王夫妻の人気を絶望的に消滅させ、まだわずかに残っていた国王支持派を転向させることになります。
1792年8月10日、過激派はチュイルリー宮を襲撃して国王一家をダンブル塔に幽閉、国王の権限を停止させました。
9月21日共和制が宣言され、12月には国王に対する裁判が始まります。翌年1月19日、国王は死刑と決まり、翌日執行。
更にはマリー・アントワネットも10月16日死刑判決が出て、即日執行されました。通常ギロチンというのは、顔を下に向けて置かれ、上から刃が落ちて来るのですが、マリー・アントワネットに関しては国民の憎悪があまりにも激しかったため、わざと上向きに置かれ、刃が落ちてくるのが本人に見えるようにしたと言われます。
200年たった現在から見ればルイ16世は彼なりに何とか国を建て直そうとしていましたが、時代の大きな流れは彼の能力を超えていました。マリー・アントワネットも政治的な教育を充分受けていたとは思えない状況下で、彼女自身の罪がそんなにあるとは思えませんが、当時は政治的に無能であること自体が罪とされたのでしょう。