パウル・クレー(1879-1940)

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素人目には一見落書きのようにも見える、幻想絵画の画家パウル・クレー(Paul Klee)は1879年12月18日、スイスのベルン近郊ミュンヘンブーフゼーに生まれました。(父がドイツ人であるため国籍はドイツ)父も母も音楽家という音楽一家でパウルもはじめ音楽の道に進み、11歳でベルン市の管弦楽団にヴァイオリン奏者として参加しています。しかし途中で美術の道に転向、21歳でミュンヘン美術学校に入学、銅版画やガラス絵の制作を始めました。

美術学校に入学の準備をしていた頃知り合った医者の娘リリーと22歳の時に婚約、27歳で結婚、翌年一人息子のフェリックスが生まれています。

ブレイク・ゴア・ゴッホ・セザンヌなどの作品に触れてその影響から分離派に参加、1914年には新分離派の創設に加わります。1916〜1918年の軍役を経て1919年にはミュンヘンの画商と契約、その後も各地で個展を開くなど順調に画家としての道を歩んで行きました。

1920年にはワイマールに新設されたばかりの建築学校バウハウスの教授として招聘され、5年間ワイマールで、それから学校が引っ越してから7年間デッサウで教鞭を執ります。しかしナチズムの台頭に伴い、この自由主義的な学校は1932年に閉鎖、1931年から兼任していたデュッセルドルフの美術学校の教授に選任。しかしナチスは彼を危険人物として迫害、この美術学校からも解雇されることになります。

1937年には彼の作品が大量に各地の美術館から没収され、その一部は「退廃美術展」に展示されました。彼はナチスに嫌気がさしてスイスに拠点を移しスイスへの帰化の申請をおこないます。しかしその手続きが終わらない内に1940年6月29日死去。享年60歳。


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