日本では「ブラヴァッキー夫人」の名前で知られる神智学者エレナ・ブラヴァッカヤ(Елена Петровна Блаватская, Helena Petrovna Blavatsky)は、1831年8月12日(旧暦では7月31日)にウクライナのエカチェリノスラヴ(現ドニプロペトロウシク)で生まれました。出生名はHelena von Hahn, Елена Петровна Ганです。
なおロシアでは姓に男性形と女性形があり「ブラヴァッキー」は男性形なので、「ブラヴァッカヤ」が正しいのですが、彼女の名前は日本では「ブラヴァッキー夫人」、英語でも Madame Blavatskyで知られています。また彼女はしばしばHelena Petrovna Blavatskyを略して HPB とも記されます。
お父さんはドイツの貴族の家系、お母さんは「Zeneida R-va」のペンネームで活躍する人気作家でした。エレナの妹のヴェラも後に作家になっています。(Vera Zhelikhovsky, Вера Петровна Желиховская)またエレナの従弟のセルゲイ・ヴィッテがロシアの首相になるなど、彼女の家系には政治家も多いようです。
17歳の時にエリヴァンの副市長も務めたニキフォ・ブラヴァッキーと結婚。しかしわずか3ヶ月の後、彼女は「自分で馬にまたがり山を越えて」グルジアに住む祖父の家に転がり込みます。
祖父は彼女を取りあえず父親の元に戻そうとしますが、彼女自身はそれを嫌がり、オデッサからイスタンブール行きの船に乗り、このあと10年に及ぶ世界放浪の旅を始めるのです。
その10年間に彼女が訪れた国は、イギリス、フランス、ドイツ、ギリシャ、エジプト、インド、チベット、カナダ、メキシコ、南米などでした。この放浪していた期間に彼女の神秘思想が固まっていったものと思われます。
1858年にいったんロシアに戻りしばらくは妹ヴェラの家に同居していましたが1860年頃、イタリアのオペラ歌手アガルディ・メトロビッチと同棲生活をはじめ、ユーリという子供をもうけます。彼女はこの子を溺愛していましたが、5歳で亡くなってしまいます。この時から彼女は「神」というものを信じられなくなったと述べています。更にはこのあとアガルディも病気がちになり1870年に亡くなってしまいました。傷心の彼女はこのあとカイロに赴きそこで3年間暮らしています。
なお、ユーリに関して、ブラヴァッキー本人は後にあれは友人の子供であると主張しています。またニキフォとの3ヶ月間の結婚生活の間も性行為はしておらず自分はずっと処女であったと主張しています。
1873年彼女は突然ニューヨークに渡り、オカルティストとして活動をはじめます。ほどなくHenry Steel Olcottらと知りあい、1875年9月に彼らと共同でTheosophical Society(神智学協会)を立ち上げました。
そしてこのあと彼女は神智学に関する研究、執筆、啓蒙などの活動に専念するようになります。
1877年には「Isis unveiled」を執筆。キリスト、釈迦、ツァラトゥストラ、ピタゴラス、マルコ・ポーロ、ショーペンハウアー、エリファス・レヴィ、など多数の哲学者・宗教者などのことば、また古今東西の文学の中の言葉を引用して、科学の絶対性に異議を唱え、また世界の宗教のルーツなどに言及しました。この著作は彼女の最初の大著であるとともに、その後の精神世界の思想に多大な影響を与えました。
1878年インドの宗教改革運動「アーリヤ・サマージ」と共鳴。翌年には神智学協会の本部をインドに移転させてしまいます。彼女はインドでも精力的に活動し、その活動は定着していったかにも見えましたが、この手の活動はどうしても既存の宗教家(特にここではインドで活動していたキリスト教の宣教師たち)から反発を受けます。
エレナが国外に出ている時を狙って、彼女の家政婦に「内部告発」をさせ彼女らの「奇跡」のネタばらしなどをさせて、この結果、彼女たちの活動はインチキであると決めつけられてしまいました。
エレナは法廷闘争を検討しますが、オルコットらは、ここで争っても得策ではないと彼女を説得。エレナは5年間でインドでの活動を断念し、1885年、イギリスに移動しました。
1886年から1887年にはドイツに滞在し「Secret Doctrine」を執筆しました。古代チベット文献「ジャーンの書(Book of Dzyan)」の注釈書、という体裁を借りて、彼女の思想をあますことなく書き綴った力作です。
その後彼女はロンドンに住み「The voice of the silence」「The key to theosophy」「Nightmare tales」などを執筆しました。
1891年5月8日、ロンドンの自宅で死去。59歳でした。彼女の命日は White Lotus Day と呼ばれています。彼女があってこそ、現代の神秘学があります。