精神分析の祖といわれるジグムント・フロイト(Sigmund Freud)は1856年3月6日18時30分頃、モラビア(現チェコ共和国内)のフライベルグ(Freiberg)で生まれました。彼の誕生日はアーネスト・ジョーンズの伝記では5月6日になっていますが、戸籍上では3月6日となっており、どちらが本当かは議論のあるところなのですが、小曽根秋男氏の占星術的な研究では3月6日のほうが妥当性が高いとされています。
4歳の時にオーストリアのウィーンに移動して、後にナチスの迫害でイギリスに逃れるまで、そこで主に暮らしています。ウィーン大学の医学部に学び1881年に学位を取得。はじめウィーン総合病院で勤務していました。
1885年に精神的な不調をもった人の治療の手段として催眠療法に関心を持ち、パリに出てシャルコー(Charcot,J.M.,1825-1893)にこの手法を学びます。そして、ウィーンで先輩のブロイエル(Joseph Breuer,1842-1925)とともに、催眠を使用した神経症の治療の活動を始めました。フロイトとブロイエルはその後10年以上共同でこの研究を進め、1894年には神経症に関する共著もまとめています。しかしフロイトはこの共著を出した直後、彼と決別することになります。
ある時彼は女性のクライアント(この分野では一般に「患者(patient,Kranke)」と言わずに「依頼者(client)」という言葉を使います)に催眠術を掛けて、心の奥に潜む悩みを聞いてあげていたところ、突然、その女性に抱きつかれたのです。彼はその瞬間、催眠術では本当の解決にならないのではないか、と思い至ったといいます。
要するに催眠術によって、その神経症の原因は分かる。しかし最大の問題はその原因をクライアントが自分で認めたがっていないことなのではないかとフロイトは考えます。クライアント自身がその原因を認識しそれを克服する気持ちになれた時が治療の終点と考えられました。そして、そのためにはクライアントの意識がある状態で、原因に迫っていく手法を使わなければならないと考えたのです。
そこで彼が催眠術の代わりに考案したのが、ひとつは連想法、もうひとつが夢の分析でした。連想法というのは、クライアントに任意の単語を示して、その言葉から瞬間的に連想した言葉を言ってもらうというものです。この手法は現在ではいろいろなバリエーションができていますが、一般常識からは考えにくいような言葉を連想してしまった場合や、連想までの時間が異常に長かったり逆に短かった場合、そこに何かのカギがあることが推定できます。
また彼は夢の中の象徴を深く分析し、夢の中に出てくるモノは何かの心理的な事柄が抑圧され変形して現れたものではないかとする夢分析理論を作り上げました。フロイトは特にそれらの中に性的な象徴が多数あることを見いだしました。
これらの理論の概要は彼の一般の人向けの名著「精神分析入門」「続精神分析入門」「夢判断」で読むことができます。この3つは新潮文庫その他に収録されています。
彼の理論は初めなかなか学会に理解されませんでしたが、やがて1907年スイスのチューリッヒでやはり神経症の治療をしていたCarl Gustav Jung(1875-1961)の訪問を受けます。彼も同様に独自にフロイトと似た結論に迫りつつあったところで、その時にフロイトの論文を見て、ぜひ情報交換したいとして彼の元を訪れたのです。彼は特にユダヤ人以外の人に、この思想を理解してもらったことを喜び、二人は無二の親友になりました。精神分析の基礎理論はこの時期にこの偉大な二人の研究者によって築き上げられたものです。
そして1908年ザルツブルグで開かれた国際精神分析医会議のあと、彼の理論の支持者が増えていくことになります。
フロイトとユングの蜜月は6年間続きましたが、二人が1913年大西洋航路の長い旅をしていた時にお互いを分析しあっていた時、突然の破局が訪れます。ユング側の資料によれば、ユングが分析したフロイトの心の中の、あるコンプレックスについて、フロイトが激しく否定したためだともいいます。
二人はこの年を境に決別。その後ユングはショックから自分自身が激しい精神的な混乱に襲われ回復するのに、かなりの年数を掛けることになります。しかしその中でマンダラの理論を見いだし、彼独自の理論構築に進んでいくことになります。そして現代ではフロイトの流れを「精神分析(Psycho-analysis)」、ユングの流れを分析心理学(Analytic Psychology)と呼んでいます。
彼らの理論は合理的な思想の強いアメリカではあまり受け入れられていませんが、伝統文化が根強いヨーロッパや日本では多くの支持者がいます。
フロイトは1886年に Martha Bernays と結婚し6人の子供をもうけています。その中の一番下のAnna Freud(1895-1982)は父と同じ道を志すに至り、子供の成長理論について詳しい研究をしています。
1937年フロイトはナチスのユダヤ人迫害から逃れてイギリスに渡り、1939年9月23日、口腔癌との激しい闘いの末(彼は1922年以降この病気に悩まされ合計33回もの手術を受けている)亡くなりました。