アル・カポネ(1899-1947)

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「暗黒街の帝王」と言われたアル・カポネこと Alfonso Capone (Alphonsoとも)は1899年1月17日ニューヨークのブルックリンで生まれました。

中学生の頃からストリート・ギャングの仲間になるようになり、やがて当時ニューヨークのストリート・ギャングの頭であったジョニー・トリノの子分になります。

1920年頃、トリノはシカゴに移動します。折しも1920年にアメリカでは悪名高き「禁酒法」(Prohibition law)が施行されました。

この法律は「酒を飲む奴は仕事も出来ん」とか「穀物を酒を作るのに使うのはもったいない」とかいわれて1919年憲法が修正されたことにもとづき制定されたものです。アルコール飲料の製造・輸送・販売・所有が一切禁止されました。

しかしそうは言われても、みんなお酒は飲みたいし長年の習慣がそんな簡単に変わる訳がありません。

ということでお酒の密造がはびこることになります。トリノはこの「密造」が大きなビジネスになると考え、その拠点としてシカゴを選んだのです。そして彼の右腕として手腕を発揮することになったのがカポネでした。

カポネの配下にビールやウィスキーの販売担当や醸造事業担当などがおかれトリノの組織は一種の企業組織のように統制のとれたものであったようです。

1925年トリノは刺客に襲われて重傷を負い、引退。その後はカポネが組織のNo.1として活動することになりました。カポネはトリノの組織を何倍にも拡大させ、シカゴで大きな「シマ」を持つに至ります。

1929年2月14日には有名な「聖バレンタインデーの虐殺」(血のバレンタインとも)が起こりました。

カポネ一家と敵対するモラン一家のメンバー7名がガレージの壁に立たされ機関銃の乱射により射殺されました。事件は当然カポネの指揮によるものと思われましたがカポネ自身は当日フロリダにいたことになっています。

国民の間に「カポネを何とかしろ」という声が起こります。しかし当時のシカゴの警察の中にもカポネの影響力は及んでおり警察にも彼を逮捕する機能は無かったともいわれます。

同年3月27日カポネは武器の不法所持で逮捕されますが判決は懲役1年。カポネは模範囚で9ヶ月で出所してしまいました。

この頃FBIは後に「アンタッチャブル」と呼ばれる、カポネ逮捕の為の特捜班を設置し、カポネを追ってシカゴやマイアミに潜入させました。そしてついに1931年カポネを脱税容疑で摘発するに至ります。裁判は最初から「カポネをとにかく檻の中に入れよう」という路線で行われ、懲役11年という判決が言い渡されてしまいました。

本来的な公正な裁判が行われていたらカボネは無罪であったとも言われますが、裁判所も国民の世論を背景に動いていました。

また当時アメリカは1933年シカゴで万国博覧会の開催を予定しており、その前にカポネ一家を何とかしたいという政治的意図もかなり働いていたといわれます。

結局カポネは服役して、やはり模範囚で7年で仮釈放され、1939年フロリダの別荘に戻りました。その後彼はシカゴには足を踏み入れていません。そして1947年1月25日、病気のため亡くなりました。出所後、彼が闇の世界にどのように影響力を与えたのかは定かではありません。

カポネが檻の中にいた間に、アメリカでは「禁酒法を廃止しよう」と訴えるフランクリン・ルーズベルトが大統領選に当選。1933年、禁酒法は廃止されました。


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