イギリスの「名誉革命」の主・オレンジ公ウィリアムは1650年11月14日に生まれました。
イギリスではチャールズ1世(在位1625-1649)の失政に怒った民衆がOliverCromwell に指揮されて1642年に革命(清教徒革命)を起こし、国王を処刑して共和制を敷きました。しかし彼の死後はいったん彼の息子の Richard が権力を継承するも議会や軍の指示を得られずに亡命、Charles 1世の息子のCharles2世が国王になって王政復古します。しかし彼は極端な復古主義に傾いたため議会との溝が深まります。そしてその次のJames2世は最初から議会と激しい対立をし、議会はオランダのウィリアム公にイギリスに来て国王になってくれるよう要請しました。系図を書いておきます。
James(1)┬Charles(1)┬Charles(2)│ ├Mary───William(3)│ │ ‖│ └James(2)┬Mary│ └Ann└Elizabeth─Sophia─George(1)
ウィリアムはオランダのオレンジ公ウィルヘレム2世と、Charles2世やJames2世の姉妹にあたるMaryの子供です。そしてその妻はJames2世の娘でした。(従兄妹同士の結婚)
オレンジ公ウィリアム3世は要請にこたえ、James2世の手勢の軍に対抗できるだけの兵力を率いてイギリスに上陸しますが、実際には一切の戦闘は行われず、James2世はそのまま亡命。血が流されずに革命が行われた為、これを名誉革命(Glorious Revolution)といいます。
ウィリアムは妻のメリーと共に「権利の章典(Bill of Rights)」を承認して、共同王位に就きました。ここからイギリスでは「国王は君臨すれども統治せず(The king reigns, but does not govern.)」というシステムが確立します。
この時代にイギリスの民主的な統治機関が整備され、軍隊の統帥権も国王から議会に委譲され、イングランド銀行が設立されました。なお、ウィリアムが亡くなった後はメリーの妹のアンが王位を継ぎ、その後はかなり血筋の離れたドイツのハノーバー公George1世へと王位は受け継がれます。
ウィリアムはひじょうに体が弱かったのですが、節制した生活を心がけ食事も暴飲暴食を避けて、睡眠も充分にとったことで52年の生涯を生き抜きました。彼はもちろん剣や馬術なども全くだめだったそうですが、母の生まれた国を救おうと立ち上がったのでした。