1848年6月7日、タヒチを描いたことで知られる画家ポール・ゴーギャンがパリのノートル=ダム・ド・ロレット街に生まれました。
この年フランスは2月革命の動乱の中にありました。12月にはナポレオン3世が大統領に就任。共和派のジャーナリストであったポールの父は迫害を避けるためペルーに渡ります(父は途中で死亡)。ポールは7歳の時までこの南米の地で過ごすことになります。このことが彼の後の生き方に大きな影響を与えました。
1855年祖父の死亡に伴い帰国、オルレアンの叔父のもとで中学・高校を卒業、その後水夫になって南米航路に乗船。この頃母を亡くしています。
その後兵役を経て、株式の仕事に従事、人に勧められて23歳頃から絵を描き始めました。28歳の時にサロンに初入選。その後次第に印象派に傾倒していき、自らも描くと同時にコレクションも始めます。
1882年金融恐慌があり、ゴーギャンは株式の仕事を断念。画家として独立しようとして妻の実家のあるコペンハーゲンに移りますが、開いた個展は散々。その後今までのコレクションを切り売りして生活する羽目になりました。
1885年ゴーギャンは妻の実家の人々とあまり行っていなかったこともあり、息子だけを連れてパリに戻ります。しかし苦しい生活は相変わらずでした。1888年にはゴッホとともにアルルで生活しますが、ゴッホの耳切事件の後、別れてパリに戻ります。そしてさらなる迷いの時期を経て、1891年、突如としてタヒチに渡りました。
この南太平洋の島で、ゴーギャンは現地の13歳の少女を愛人にして、傷心のまま制作を続けます。彼はこの南洋の文化が気に入りましたが、やはりお金の問題で行き詰まってしまいます。そこでいったん1893年帰国。しかし何らかの事情が好転する筈もありませんでした。解決を見いだせないまま1895年再びタヒチへ。そして今度は14歳の少女を新しい愛人にして暮らし始めます。
ゴーギャンはこのタヒチにもだんだん西洋文化が流入してくることを嫌い、更に1901年タヒチから1500km北東のヒヴァ・オア島に移ります。ここが彼の最期の地になりました。生活苦の中、現地の人たちともいさかいを起こしたりしつつ、1903年5月8日死去。現地で埋葬されました。
彼は株式マン時代は趣味で絵を描くことで幸福な生活を送っていましたが、画家一本になってからは、とにかく不遇な暮らしをしており、本人も心の迷宮に迷い込んだまま、どうにもそこから抜け出すことができませんでした。
そんな中、心の奥底から絞り出すようにして描いた不朽の名作が『我々はどこから来たか?我々とは何か?我々はどこへ行くのか?』(1897)でしょう。
彼はこの直前に自殺を決意、翌年には一度自殺未遂を起こしています。画面は暗く、彼の苦悩がそのまま叩きつけられているかのようです。仏像のような青い像、林檎のような果実をもぎる人、食べる人、寝ている子供と女たち、頬杖をつく老婆、とかげを踏む鳥、..... 深すぎて理解できる人は少ないかも知れません。