1908年9月19日、YKKの創業者・吉田忠雄が富山県下中島村(現魚津市)に生まれました。初め兄のゴム長靴屋さんを手伝っていましたが20歳のときに貿易商になることを志して上京、陶器の輸入会社に就職しますが、1933年の世界的な恐慌で会社は倒産してしまいます。
この時、この会社の倉庫に大量のファスナーがありました。戦争が迫っていた時期、ファスナーは絶対売れると踏んだ吉田はそれを全部自分で買い取り、販売を始めました。翌年1月にはサンエス商会を東京に設立、ファスナーの国内生産にも取りかかります。これがYKKの前身です。
この会社は1938年に吉田工業と改名(正確に言うと1938吉田工業所, 1942有限会社吉田工業所, 1945吉田工業株式会社)、戦後の1946年にYKKの商標を使用開始し、1994年に社名もYKK株式会社に変更しました。
戦時中は順調に営業をしていましたが(1945年の東京空襲で工場が焼失するが、すぐに地元の富山に戻って再建)、1947年たまたま店を訪れたアメリカ人にファスナーの品質の悪い物があることを指摘されます。
工業製品というのは、ひとつ品質の悪い物があれば、それを買った人は全部の商品が悪いような言い方をします。吉田は手作業で物を作ることの限界を認識しました。3年後彼はアメリカ製のファスナー自動製造機を購入します。当時の吉田工業の資本金が500万円であったのに、この機械は1200万円もしました。しかし、彼はこれ以外生き残る道はないと決断したのです。
この賭けは成功し、YKKのファスナーは売れに売れました。1961年にはアルミ建材にも進出。そのノウハウによりファスナー自体の品質も上がりました。
彼はカーネギーを信奉しており「善の循環」というのを常に言っていました。「他人の利益をはかって、初めて自らも繁栄するのだ」という思想です。
それを最もよく表しているのがオイルショックの時のエピソードです。彼は取引先の人たちを集めてこう言いました。
「我々が百億円の損失をかぶる。だからみなさんは出し惜しみや値上げはしないでほしい」
消費者に製品を供給するために、メーカーが泥をかぶらずにどこが責任を取るのか、というのが彼の哲学であったのでしょう。こういう骨のある経営者というのも最近はなかなか見なくなりました。
1993年7月3日0時52分、肺炎のため死去。84歳。