山本丘人(1900-1986)

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幻想的な幽玄の世界、美しく華やかな叙情の世界、荒く厳しい峻厳の世界、いろいろな世界を日本画の世界に乗せて描いてくれた山本丘人(きゅうじん,本名正義)は明治33年(1900)1月8日、東京市麻生で生まれました。(戸籍では4.15下谷) 父は東京音楽学校の事務官です。

広瀬東畝・篠田柏邦に日本画の手ほどきを受け、東京美術学校(現東京芸術大学)で学び、美術学校では松岡映丘の指導を受けました。28歳で帝展に初入選、30歳の時に丘人の号を定めます。むろん「丘」の字は師の名前から一字拝借したもの。

戦時中の1943年東山魁夷らと国土会結成、翌年東京美術学校助教授、1946年日展審査員(-1947)、1947年女子美術専門学校(現女子美術大学)教授。しかし、1951年には両校の教職を辞し、創作活動に専念しています。

日展に関しては審査員にはなったものの、その審査基準に疑念を抱きこれが1948年に上村松篁らと創造美術を結成するきっかけとなります。この団体は1951年に新制作派協会に吸収されますが、1974年になってから再び創画会として独立しています。

丘人は初期の頃は少女絵を好み、柔らかい優しいタッチでロマンティックな作品を描いています。しかし終戦の少し前頃から奥多摩の自然を盛んに描くようになり、1950年代に入ってからは一転して厳しい山岳の絵ばかり描くようになりました。

特に1957年頃北軽井沢に山荘を構えると、そこから見える浅間山をはじめ多くの信州の山々など峻厳な山岳絵を描き続けました。そして、そういう絵を描く画家と、みんなが思い始めた1965年頃、突然有情回帰が起きます。

山や林の絵の中に人物が描かれるようになり、やがてそれは夢幻の境地となって幻想的なまでの美しさに昇華されていきます。

1984年12月に病に倒れるまで意欲的な創作活動を続けましたが、療養中の1986年2月10日、急性心不全で死去。享年86歳。


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