梅原龍三郎(1888-1986)

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日本の近代絵画史に燦然とその名前を刻む梅原龍三郎は明治21年(1888)3月9日京都市下京区に生まれました。

15歳の時画家の道を夢見て中学を退学し伊藤快彦の画塾に入ります。その後浅井忠の聖護院洋画研究所に移り、18歳の時、浅井が関西美術院を設立すると、そちらに移ります。20〜25歳の間ヨーロッパに留学し、ルノワールの絵を見て感激。パリの学校で学び、帰国前に二度ルノワール本人に面会することもできました。また友人からピカソにも紹介してもらっています。

帰国後東京に住み、1914年には二科会の創立に参加。この年亀岡艶子と結婚。長女紅良と長男成四が生まれました。1919年ルノワールの死を知って衝撃を受け翌年忌問のため渡欧しています。

1934年には鹿児島に行き桜島を描きます。このあと鹿児島シリーズは1940年まで続き、桜島のほか霧島などの風景を描いています。戦時中は伊豆で富士山などを描いていました。

戦後は軽井沢の風景を好み、浅間山をよく描きます。1953年には軽井沢にアトリエを作り、毎年夏にはここに滞在するようになりました。また夫人や長女を伴って何度か渡欧しており、1973年には日本とフランスの文化交流に貢献したとしてフランスからコマンドール勲章を受けています。夫人が亡くなったあとの1977年のフランスへの旅が最後の渡欧になりました。

1986年1月16日肺炎による心不全のため東京の慶応病院で死去。享年97歳。

梅原の作品は1910年代の頃はルノワールに似た柔らかいトーンの作品が多くやがて1920年代を過ぎるとゴーギャンなどのような太い線を使用した作品が現れ始め、1940年代になると独特の、繊細さと大胆さが同居したような画風(一瞬クレヨン画のように見える)に進展しています。

また戦後はデトランプの作品も多数制作しています。テンペラと似ていますが、絵の具が素早く乾くため、即興的な面白みが出ています。

なお梅原は自分の絵の感覚の刺激のため、師としたルノワールのほかドガやピカソ、琳派や浮世絵などを多数収集していましたが、亡くなる前に全てをあちこちの美術館に寄付してしまいました。そのさっぱりした性格が伺えます。


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