元トヨタ自動車社長の豊田英二は豊田佐吉の甥(弟平吉の次男)ですが、佐吉の精神的な遺伝子を一番強く受け継いでいると言われます。
今では信じられないことですが1949年頃トヨタはトラック販売の不振から極度の経営難に陥り、従業員の給料も払えないような事態に陥り労働争議が頻発しました。結局は財閥系の資金援助を受けて再建されるのですが、その時、トヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売が分離されました。そしてトヨタはフォードの技術を導入し、事実上同社の傘下になるような話も出ていたのですが、その話を拒否し、国産技術にこだわりつつ、合理的な生産システムを構築していく方向に進めていったのが、豊田英二であると言われています。
当時、英二はアメリカでフォードの工場なども見学させてもらい、向こうの先進の生産システムを見て「これではとてもかなわない」と衝撃を受けました。しかし同時に「しかしここで行われていることはトヨタにもできる事だ」という思いも募らせたと言われています。
そして創業者の喜一郎氏の時代に生まれた「カンバン方式」をより洗練されたものに進化させ、徹底的に工場のムダを無くすと共に、従業員の士気を高めることに尽力しました。彼は第一線の工場技術者たちと共に工場にいつも出かけ、前回来た時に調子の悪かった機械が次来た時に交換されていたりするとちゃんと気づいて「これ交換したんだね。良かった」などと言ったりしたエピソードも伝えられています。そして彼がトヨタ自動車工業の社長を務めた1967年から1982年までの間に同社は営業規模を10倍に伸ばしています。その1982年、トヨタはトヨタ自動車工業とトヨタ自動車販売の再統合を実現。再建を完了して英二氏は新会社の会長に就任しました。
そして現在、世界の自動車産業は激しい再編劇の渦中にあり、GM・フォード・ダイムラークライスラー・フォルクスワーゲン・トヨタ・ルノーの6大グループを軸に弱小メーカーがそこに巻き込まれていきつつありますが、この一郭をトヨタグループが占めているのも豊田英二がいたからこそとも言われます。
トヨタ自動車の創業者は豊田佐吉の息子の豊田喜一郎で、初代社長はその義弟(妹愛子の夫)の豊田利三郎ですが、1949年の経営不振の際に揃って退任しています。トヨタ自動車が操業した頃、ライバルの日産はアメリカのグラハム・ページ社の技術を買取って自動車の生産を始めたのに対して、トヨタはあくまで自前の技術にこだわり、エンジン自体から手探り状態の中で自社開発しました。しかしそれがたたっ初期の頃は「トヨタの車はよく壊れる」という悪評を受け、喜一郎・利三郎の時代には苦しい経営が続いていました。
英二は喜一郎に誘われて自動車部門に参加し、工販分割後は「トヨタ中興の祖」といわれる石田退三氏の下で、トヨタ自工の常務を務め、この時代に渡米したりして次のトヨタの戦略を練っていました。
1967年10月に社長就任しましたが、その直前に発売された「白いクラウン」は爆発的なヒットで、それまでほとんど法人オーナーばかりであったこの車に個人オーナーを大量に生み出します。また1966年秋発売のカローラは1968年の三億円事件の影響にも後押しされて、代表的な国民車としての地位を獲得。この頃からトヨタの快進撃は始まっています。
1994年には日本人として2人目のアメリカ自動車殿堂入りを果たしています。(1人目は本田宗一郎)