1971年(昭和46)10月11日、大相撲の横綱・玉の海正洋が虫垂炎の手術の後、退院を目前にして急逝しました。27歳でした。
玉の海は本名谷口正夫。1944年2月5日大阪市生まれです。柔道を志していましたが、後に片男波親方となる関脇・玉乃海に口説かれて相撲界へ。1959年3月初土俵。1964年3月入幕。そして1965年に新小結になった場所にいきなり大横綱・大鵬を破る快挙。7月関脇。1966年11月に大関。
そして1970年1月にライバルの北の富士(後の九重親方)と同時に横綱に昇進して、大鵬・柏戸に続く新しい時代のスタートとして大いに期待されました。土俵入りは不知火型でした。
横綱昇進後は非常にいい成績を残し、45年秋場所から46年春場所まで連続4場所14勝をあげ、名古屋場所では全勝しました。
それが夏の巡業先の青森で虫垂炎で倒れます。この時、北の富士が青森に駆けつけて土俵入りのピンタヒッターを務めてくれるのですが、この時、北の富士は、自分の本来の型である雲龍型ではなく、玉の海の不知火型で土俵入りを披露するという友情を見せてくれました。
そして玉の海は手術を受け、療養につとめます。そしてすっかりよくなって明日退院というこの日、突然亡くなってしまったものです。
その知らせに北の富士は号泣します。(私もショックでした。大好きな力士でした。)
しかしこの時、いろいろ不吉な話があります。
玉の海が入院した病室は4階の414号室という、縁起の悪い?番号でした。また九州場所のポスターに玉の海が使われていたのですが、この時写真のピントが玉の海ではなく、太刀持ちの二子岳に合っていたそうです。そして、入院してからも後輩の力士に「最後かも知れんから写真を撮っとけ」と言ったともいいます。
一体なにがあったのでしょうか。