数学基礎論学者・竹内外史(がいし)は1926年1月25日、石川県に生まれました。1947年に東京大学数学科を卒業、同大助手、教養部講師を経て、1952年に東京教育大学(現つくば大学)助教授、1956年に理学博士号を取得して、1962年に同大教授。そして1966年にアメリカに渡りイリノイ大学教授。現在は退官して同大名誉教授の地位にあります。この間、1959-60, 66-68, 71-72年にプリンストン大学高級研究所員も務めました。
数学基礎論というのは、19世紀末に発見された重大な数理学上の矛盾「カントールのパラドックス」を契機に生まれました。このパラドックスは次のようなものです。今、xという集合を次のように定義する。
x = {x|xはxに属さない}
さて、この時 x がxにもし属すとしたら、xは「xはxに属さない」という仮定を満足している筈だから、つまりxはxに属さないことになる。しかるに、もしxがxに属さないのなら、それはxはこの条件を満足しているのだから、確かにxはxに属している。
このパラドックスの深刻な点は、このパラドックスが何の公理的仮定も置かずに純粋に発生している点にあります。この問題を解決できなければ、人類はギリシャ時代以来積み重ねてきた、ほぼ全ての科学的な理論を失ってしまうことになるのです。
数学基礎論では、上記のような問題が発生したのは今まで漠然と使ってきた「集合」という概念が、あまりにもいい加減過ぎたという反省を出発的にしています。そして、まず科学的な推論を行っている時の「論理」そのものにもきちんとメスを入れて『正しい推論』とはどのようなものか、ということについても研究しています。
その後、数学基礎論は主として次の4つの分野について研究が行われるようになりました。
公理的集合論(axiomatic set theory)数理論理学(mathematical logic)モデルの理論(model theory)計算論(computability theory)
関連する理論として10年ほど前に話題になったファジィ理論、カテゴリー論、オートマトン論、超準解析論などがあり、また物理学の量子力学などとも関わりがあります(その付近の研究をしたのがフォン・ノイマン)。
上記の中で「計算論」というのは再帰的関数論(recursive function theory)と言う人もいますが、論理学から派生的に出てきたもので「人ができること」と「神様にしかできないこと」を純粋に分けようという考え方です。
つまり神様にしかできないようなことまで人が出来るかのように思いこんで色々理論を作り上げるから、自分達の常識に反するような矛盾が出来てくるのだという反省がここにあります。ここでは例えば「この操作を無限に続けていけば」などという素朴な思考は禁止されます。人間にはあくまで有限の操作しかできないはずです。この時「どこまでが人間のできることなのか」ということが研究され、人間の思考の基本原理を研究していく過程で生み出されたのが、コンピュータ(チューリング・マシン)でした。
ですから、19世紀末に発見されたカントールのパラドックスがコンピュータを生んだということもできます。
数理論理学の分野ではギリシャ以来、哲学的に把握されてきた「論理」というものを、もう一度科学の目で見直す作業が行われてきました。その中で、最初に見つかった輝かしい成果が、Gerhard Gentzen(1909-1945)が1936年に証明した「自然数に関する数学理論は矛盾を含んでいない」という定理です。この時Gentzenは超限帰納法という、新しい強力な証明方法を導入しました。彼の証明を読むと、まるで現代のデジタル世界が先読みされているかのような感があります。彼は若くして亡くなりましたが、時代を超えすぎたのかも知れません。
竹内外史の初期の主な功績は、このGentzenの得た結果をもっと拡張していくことにありました。それと共に、やがて彼は1970年代から80年代にかけて、日本の数学基礎論の旗手的な存在・啓蒙者的存在になっていきます。カテゴリー論や量子論理学などの理論は竹内が紹介しなかったら日本で知る人は少なかったかも知れません。
数学というものは、大学の学部構成や図書館の分類などでは一応自然科学の中に分類されてはいますが、物理学者や化学者などからは「異質のもの」と見られがちです。他の自然科学の研究者の中には数学は自然科学ではなくて哲学ではないのか、と思っている人も多くあります。
しかし数学基礎論というのは、その数学者の多くからもまた「異質のもの」と思われています。幾何学者や代数学者などにいわせれば「数学基礎論って数学というより哲学じゃないの?」という感じでしょう。
竹内外史も若い頃から、そういう周囲の冷たい目にさらされてきて、すっかり自分は哲学嫌いになった、と言っておられたことがあります。しかし数学基礎論がやっていることは、ある意味で代数や幾何学以上に自然科学的であったりします。
数学基礎論が追跡しているのは、つまり「数の世界」というのは、本当はどのようになっているのだろうかという、ある意味での宇宙の根本に迫るものです。
例えばAと仮定しても矛盾は起きない、Bと仮定しても矛盾が起きない、という時、従来ならAもBも一種の真実を表しているのではないか、と考えられてきた傾向があります。非ユークリッド幾何学などはそのいい例です。しかし数学基礎論の研究者はそういう時こう考えます。「ほんとうはAかBか、どちらかである筈。矛盾が出ないというのは、我々がこの分野を研究している時に使用している公理が足りないからだ」と。
そこで、Aと仮定した時と、Bと仮定した時と、どちらがより自分たちが把握している宇宙の姿に近いものが結論づけられるかというのを研究していく必要があるわけです。そのようにして、公理の確立を図っていくことこそが実は数学基礎論の使命であり、計算論における基礎的思想である「Churchのテーゼ」などはその成功例です。集合論における「連続体仮説」なども次第に仮説という扱いではなくなりつつあります。
こういう思考は概して多くの科学者に欠如しているものですが、ノーベル賞クラスの研究をするハイレベルの研究者は必ず、そのような「宇宙を見る目」を持っています。
この付近が、数学基礎論がしばしば多くの他分野の研究者から誤解される部分でもあり、また竹内外史がずっと広く啓蒙しようとしてきた問題でもあります。しかしなかなか日本の学界ではこういう思考が受け入れられないのが、竹内がずっと日本に戻ってこなかった原因なのかも知れません。