大山康晴(1923-1992)

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将棋の第15世名人、大山康晴は大正12年(1923)3月13日、岡山県倉敷市で生まれました。

5歳の頃から将棋を覚え、めきめき強くなって昭和10年(1935)に木見金治郎八段に入門。この時同門に後に生涯のライバルとなる升田幸三がいました。升田は1918年生まれで5つ年上。当時既に二段。二人は升田の角落ちで対局しますが結果は大山の3連敗であったといいます。

しかし彼はその後天性の実力をどんどん開花させ、昭和15年には四段に昇進してプロになります(将棋のプロは四段から。三段まではいわば見習扱い。うーん、英語で言えばsemi-proか?)

昭和18年に六段になったあと昭和19年招集されてしまいますが、国内の部隊に配属されそのまま終戦。昭和21年には将棋界も復興されて順位戦が再開されて、大山も棋界に復帰します。

昭和22年にはB級で2位になってA級に昇級するとともに七段に昇進しました。

将棋の順位戦というのは要するに名人への挑戦者を決めるためのリーグ戦です。A,B,Cと3つのランクがあり、B,Cは更に現在はB1,B2,C1,C2と細分されています。各クラスの上位2名が上のクラスに上がり、下位2名が下のクラスに落ちます。そしてA級の成績優秀者が名人に挑戦するという仕組みです。そして大山は翌23年、あの兄弟子・升田を「高野山の決戦」でやぶってA級1年目にして、塚田正夫名人への挑戦権を得ました。

しかし大山はこの時は七番勝負を名人に4対2で敗れ、いきなりの名人位獲得はなりませんでした。結局彼が名人位を取得するのは4年後、昭和27年になります。相手は第14世名人である木村義雄。木村はこの若き天才に「いい後継者ができた」と言い遺します。そして彼はこのあと5年間名人位をキープして第15世名人の資格を得ました。

ここで「名人」について少し説明をしておきましょう。

以前は「名人」というのは江戸初期の大橋宗桂以来、将棋界の最高位とされいったん就任すると死ぬまでそれを名乗ることができました。13世名人関根金次郎は大正10年(1921)名人位に就きましたが、その時53歳でした。彼はどう考えても自分はピークを過ぎている。ほんとうならもっと若い時期に名人になりたかったと考え「本来はもっとも油が乗っている人が名人を名乗るべきではないか」と思います。

そしてついに昭和12年(1937)名人戦(順位戦)を創設。実際のリーグ戦を制した棋士が「名人」を名乗るシステムが導入されました。その最初のリーグ戦を制したのが木村義雄。彼はその後5期連続で名人位をキープして、名人戦の権威を高めました。名人位を(通算で)5年間キープすれば「永世名人」の資格を得られることになったのですが、木村の次にこの資格を得たのが、大山だったのです。

つまり大山は実力制名人に移行してから2人目の永世名人取得者です。(その後、この資格を得たのは、現在のところ中原と谷川のみ。羽生はまだ3期)

さて大山が昭和28年,29年に名人戦七番勝負を戦った相手もまた升田でした。その升田は大山が木村から名人位を奪った昭和27年に、その木村から王将位を奪取していますが、この時有名な「陣屋事件」を起こしています。

当時のタイトル戦では、三番負けた側は次の対局から相手の香車落ちで対戦しなければならないシステムになっていました。この時、升田は木村に3勝しており、昭和27年2月18日神奈川県鶴巻温泉の旅館・陣屋で行われるはずだった次の対局では、升田が名人に対して「香を引いて」勝負するという、名人にとっては屈辱の一局になるはずでした。

ところがこの日升田はこの対局をすっぽかしてしまったのです。升田の言うには、旅館の玄関に入って何度も声を掛けたが、誰も出てこないので、頭に来て帰った、ということでした。この時はそれ以前から周囲に色々な怨念が渦巻いていたため、これをきっかけとして、あわや将棋連盟が分裂するかという大騒動にまで発展しますが、棋界の長老の仲裁などもあってなんとか収まります。

(升田と木村の勝負ではタバコ好きの升田が健康のため禁煙している木村にわざと煙を吹きかけるなどの盤外の鞘当てがあった)

その升田が昭和32年(1957)三たび名人位の大山に挑戦して来ました。この年の升田はひじょうに充実しており、3勝2敗にまで持ち込みます。これで大山は次の対局を升田の香車落ちで対局しなければならなくなりました。升田は少年時代に「自分はいつか名人に香を引いて勝つような強い将棋指しになりたい」と語っていたといいますが、この勝負がまさにそうなりました。升田が第六局を香落ちで勝って大山から名人位を奪取しました。

なお、現在ではこの「香落ちシステム」は廃止されています。

この時のことを大山は「心が緩んで魔に取り付かれてしまったので負けた」と後に語っています。そして真の大山時代というのは、このあと到来するのです。

大山は次の期のA級リーグ戦でも1位になって升田と七番勝負を戦いますが、この年はまた升田の勝ち。そしてその次の年昭和34年にもまた挑戦権を得て3年連続となる名人戦の「大山・升田」戦七番勝負が始まります。この時期の二人の闘いは本当に凄まじいです。

昭和31年 王将戦 大山王将 0−3 升田 失冠 (指し込み)昭和32年 王将戦 升田王将 4−2 大山 敗退名人戦 大山名人 2−4 升田 失冠 ※これで升田初の三冠に九段戦 升田九段 4−2 大山 敗退昭和33年 王将戦 升田王将 3−4 大山 奪取名人戦 升田名人 4−2 大山 敗退九段戦 升田九段 2−4 大山 奪取昭和34年 名人戦 升田名人     大山

見ている側としては、今でいえば羽生と佐藤の勝負のような、見ているだけで緊張感が伝わってきて「すさまじさ」を感じるような勝負だったのではないかと思います。そして、この名人戦、大山は升田を4−1で制して、名人位に復位を果たしました。同時に升田に続く二人目の三冠となりました。

升田はその後昭和38年,41年,43年,46年にも大山名人に挑戦してきましたが、いづれも大山が勝っています。その間ずっと大山は名人位をキープし続けました。そして大山は35年に王位戦、38年に棋聖戦が始まるとこれにも勝って、一時的には五冠になっています。

その大山が名人位を降りることになったのは昭和47年(1972)でした。相手は中原誠。翌年中原は大山から9期連続してキープしていた王将位も奪取して大山は無冠になってしまいます。

しかしこれでそのまま消えていくような大山ではありませんでした。翌昭和49年(1974)、大山ももう51歳になっています。この年大山は中原から十段位(以前の九段戦。現在の竜王戦)を奪取、更には内藤國雄から棋聖を奪還して再び二冠になるのです。

更に昭和54年に再び無冠となるも、翌年には加藤一二三から王将位を奪還。これを昭和58年60歳で失いますが、昭和61年には63歳で(奪取はならなかったものの)名人戦の挑戦権を得るなど、年を取っても衰えを見せない実力はすごいものでした。

ライバルの升田は昭和54年に引退してしまい、平成3年に亡くなりましたが、その翌年・平成4年(1992)に大山はA級順位戦で居並ぶ若い棋士たちを連覇して、名人への挑戦者決定戦にまで進出(挑戦権獲得はならず)します。

しかし、その3ヶ月後の7月7日の夕方、前年に手術した肝臓の調子が思わしくなく、休養と治療のため入院。しかし7月26日22時45分、肝不全のため、千葉県柏市・国立がんセンター東病院で亡くなりました。享年69歳。

結局彼は死ぬまでA級現役棋士でした。

将棋界には10年に一度の割合で天才が生まれるといわれるのですが、彼は「50年に一度の天才」であったかも知れません。

タイトル獲得:名人18期, 王将20期, 十段(九段戦を含む.現竜王戦)14期,王位12期, 棋聖16期   合計80期。タイトル戦総登場数 112回。


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