先日取り上げた横井庄一軍曹の場合は、ひたすら救出を待っていたのですが小野田少尉の場合は30年間、ずっと戦争を続けていました。
小野田氏は1922年3月19日和歌山県海南市生まれ。中国で商社マンをしていましたが招集後、陸軍中野学校でゲリラ戦の訓練を受けたあと、1944年フィリピンに派遣され、ルバング島で残置諜者となるよう命令を受けました。しかし戦争が終わった後、彼らに任務終了の命令が届きませんでした。
当初のメンバーは4名。小野田と、島田伍長、小塚上等兵、赤津一等兵です。このうち1949年、赤津一等兵が投降したことにより、このグループの存在が明らかになりました。しかしなかなかその所在をつかむことはできませんでした。
1952年、朝日新聞の辻豊記者が「戦争は終わりました。出てきてください」と叫びながらジャングルの中を歩き回りますが、小野田らは米軍の謀略ではないかと考え、出ていきませんでした。
1954年、地元の軍隊と武力衝突。この時、島田伍長が戦死します。
1959年には小野田氏のお兄さんが捜索に向かい、本人であることを知らせるため、旧制一高の寮歌を歌いましたが、彼らを信用させることはできませんでした。この捜索が芳しくなかったことから、政府は残りの二人も1954年の戦闘で死亡したのではないかと推測。
しかし1972年、また地元民と衝突。戦闘が起きて、小塚上等兵が戦死します。この時一人逃げた人がいたという証言から、残る小野田氏が生きている可能性があるとして、再び捜索隊が組織されますが、見つけることはできませんでした。
この小野田氏を帰国に導いたのは、冒険家の鈴木紀夫氏です。
鈴木はルバング島のジャングルにテントを張っていて、この年の2月20日、偶然小野田と遭遇。ここで一晩掛けて小野田と話し合い、彼に戦争が終わったことを語り、一緒に日本に帰りましょうと説得しました。しかし小野田は自分は命令を受けてここに残留しているから、その命令が解除されない限り勝手に帰るわけにはいかないと言います。
そこで鈴木は、小野田の上官となんとか連絡を取ってみるから、後日、もう一度会って欲しいと要請。小野田も同意して、3月10日、もう一度会うことになりました。そして、この日、約束通りの場所に現れたのです。
(横井にしても小野田にしても30年間ジャングルで暮らしていて暦はほとんどずれていなかったそうです。昔の人というのは大したものです)
鈴木からの連絡で小野田の元上官・谷口義美少佐が急遽ルバングに赴きました。そして、この日現れた小野田に、残留命令の解除を伝え、長年の任務遂行の労をねぎらったのです。小野田は3月12日、鈴木らとともに帰国します。
帰国後政府はせめてもの慰労金として100万円を渡そうとしますが、誇り高き小野田は拒否。どうしてもというので、彼はこれを靖国神社に寄付してしまいます。そして天皇や首相との会見を断り、真っ先に戦闘で亡くなった部下、島田と小塚の墓参りに行きました。彼は義理を通す人でした。
そして1年後彼はブラジルにわたり、牧場経営を手がけます。そしてそれを成功させ、大牧場主となってから再び日本に戻り、現在は「小野田自然塾」を主催して、子供たちにアウトドア生活の指導をしています。
ごく普通の人として、大きな運命の歯車に翻弄され、流されてしまった横井と違い、小野田は厳しい運命の濁流の中、自分の生き方を常に模索し、常に困難と闘い続けています。ですから小野田にとってはジャングルの中での30年というのも無意味な時間ではなかったのです。
どちらの生き方が良いのか、私にはとても論評できません。