イオングループ(旧ジャスコ)の実質的な創業者である岡田卓也は1925年9月19日三重県四日市市に生まれました。最近は民主党前代表の岡田克也の父として名があげられる事も多いようです。なお克也は次男で、イオングループは長男の元也が継いでいます。三男の高田昌也(母方の姓を継いでいる)は東京新聞・中日新聞の記者をしています。
岡田家は宝暦8年(1758)創業の老舗の呉服商で、岡田卓也氏はその七代目に当たります。元は篠原屋と言いましたが、中興の祖である五代目惣右衛門(この家では跡取りは代々創業者の名前である惣右衛門を名乗る)が1887年に岡田屋に改称、その甥で六代目の惣右衛門(卓也の父)が1926年に株式会社に改組しました。
卓也は五人姉弟の末子で長男。父母が早くなくなったため店は主人不在のまま次女の千鶴子が卓也が成人するまでの「中継ぎ」として切り盛りしていました。卓也は地元の旧制中学から1943年に東京の早稲田に進学。在学中に招集され、和歌山から茨城で活動。鹿島灘で米軍上陸に備えての迎撃(といっても既に武器が尽きているので事実上の特攻)訓練に明け暮れます。
終戦後、新宿東口に多数の露天商が並び賑わっているのを見て自分も早く家に帰って店を再興しなければと決意。上官の命令を無視して帰郷。姉から店を引き継いで七代目に就任すると共に、空襲で焼けていた店を急遽バラック建て直して1946年3月に再興。親族らで京都まで自転車で出かけて商品を仕入れてきて、軍払下げのベッドに戸板を置いた露台に商品を並べて売るという状態で営業再開しました。
元々は呉服商だった訳ですが、この時代は何でも売れる物は売るという方針で、特に子供たちに岡田屋の名前を覚えてもらおうというので文具に力を入れていたそうです。また知名度を上げるため岡田屋の名前の入ったベンチを市内各地に寄贈したりもしています。当時卓也氏はまだ早稲田大学に籍があり、週一度夜行列車で上京しては学校に出て、帰りは東京で多数商品を仕入れて戻ってくるという生活をしていました。
やがて1946年7月に「大売出」のチラシを新聞の折込広告として出します。戦時中は物資が配給制だったため、このような概念は長く人々の心から忘れ去られていました。当時新聞販売店も長く経験したことのないことで広告の料金を決めるのに悩んだといいます。そして何よりもこのチラシを見た人たちは「そうだ。戦争は終わったのだ」という事を今更ながら実感して感動したと伝えられています。
昭和20年代・30年代に掛けては岡田は斬新なアイデアの連発で新しい販路を開拓し、また集客の施策を打ち出しています。県内各地に行商に出て知名度を高め、洗濯機が当たる抽選会を毎月行ったり自動車でパレードをしたりなど、積極的かつ派手な戦略で店の規模をどんどん大きくしていきました。また昭和30年代には四日市以外にも積極的に店舗展開をしたり違う営業形態の店を出したりもしています。
1966年2月21日、兵庫県のフタギおよびシロと提携して共同仕入機構を大阪に設立。この名前は三社の従業員の公募で決定されJUSCO(Japan United Store COmpany)となりました。また同年秋には東北地方の有力チェーン6社と提携して「東北ジャスコ」を設立しています。そして1970年にはフタギなど数社と、1972年にはシロなど数社と合併。1971年に会社名が「ジャスコ」になりました。
1974年9月には東京・大阪・名古屋の証券取引所に上場、1970年代後半には関東方面に積極展開。千葉の扇屋や水戸の伊勢甚百貨店などを合併しています。更に1980年代にはコンビニのミニストップ、レストランチェーンのロブスターなどを展開。1989年には商売は時代に応じて変化していかなければならないという思想からグループ名を「イオン」に変更しました。(2001年にジャスコ本体もイオンに改名)
岡田氏の信条は五代目惣右衛門が遺した「大黒柱に車をつけよ」という言葉で、商売が成り立つ所に積極的に店を移動して行くという方針です。それも今賑わっている場所ではなく、これから賑わいそうな場所を狙うという方針で、岡田氏はそれを「狐や狸が出る場所に出店するのだ」とも言っています。このことから、以前ジャスコは、店を出したら、どんなにそこが繁盛していても20年後には必ず閉店して別の場所に移動する、というおもしろい戦略を取っていました。ひとつの商圏の寿命はその程度のものということなのでしょう。
日本のスーパーマーケット業界では、このジャスコをはじめとしてダイエー、ユニード、ユニー、ニチイ(後のマイカル)、ヤオハン、イトーヨーカドー、西友など、多くの企業が急成長を遂げましたが、その後ほとんどが行き詰まり、結局今無傷で残っているのは、今挙げた中ではジャスコとイトーヨーカドーとユニーの3社だけです。
ユニードはダイエーに吸収され、そのダイエーは現在再生機構入り。西友はアメリカのウォルマートに買収されています。そしてヤオハンとマイカルが事実上破綻したのを引き継いだのがイオンでした。ヤオハンはマックスバリュと改名して見事に再建され、マイカルもイオン配下で徐々に再建が進んでいます。このため最近では岡田氏は「再建屋」の異名までもらうことになりました。
2000年5月には新しい世代の感覚に期待したいとして会長を退任。経営からは離れており、イオン環境財団理事長として、木を植える運動などに取り組んでいます。
実はジャスコはかなり以前から緑化運動に取り組んできていました。これは岡田氏の地元の四日市が深刻な公害に悩んでいたことが発端とされます。戦火でも焼け残った自宅の松の木が枯れ、祖父が大事にしていた南天が実を付けなくなったりして深刻さを感じます。1958年には樹木が枯れて空気の汚染から「人も通らない」と言われた70m道路に草花を植える活動をしたり、1965年には県外出店の第一号となった岡崎店の開店パーティーを取りやめてそのお金で桜の木を1000本寄贈したりしています。1989年のイオングループ発足時にイオン1%クラブを設立してグループ内優良企業の税引前利益の1%を拠出して環境保全や文化振興などに取り組みはじめ、1991年にはイオン環境財団を発足させました。それ以来植樹した木の数も日本や中国などで数百万本にも及んでいます。