先日のサッカー・ワールドカップで日本代表を率いた岡田武史監督は1956年8月25日の生まれである。
香川県出身で、大阪天王寺高校から早稲田大学、古河電工と進んだ。サッカーを始めたのは中学の時。高校では大阪天王寺高校は府大会でベスト8程度の学校であったが、国体の大阪選抜代表に選ばれキャプテンを務める。そして日本ユース代表にまでなった。一浪後早稲田大学に進学するが、最初の内はサッカー部には入らず同好会で活動していた。2年の時に現在の奥さん・八重子さんと知り合い4年生で学生結婚。
大学卒業後はマスコミ関係への就職を目指すが夢を果たせず古河電工に入社(1980)。ここのサッカー部(現ジェフ市原)で活動することになった。
日本代表でもDFとして活躍。決して身体的に恵まれている訳でもなくスピードやテクニックに優れている訳でもないが、敵の攻撃の変化を即座に分析して対応できる、堅実で頭脳的な緻密なプレーをする選手として記憶された。国際Aマッチの出場回数は26回。
現役引退後はジェフ市原のスタッフとして残り、サテライトチームの監督などをつとめた。トップチームの監督経験はしていないが、ドイツに留学してコーチの訓練を受けるなどして理論家として通っていた。
1994年12月日本代表の新監督に加茂周が就任するのと同時にコーチとして呼ばれ、加茂監督の補佐および選手たちとのパイプ役として日本代表に貢献してきた。
1997年10月4日、ワールドカップ最終予選の対カザフスタン戦。もう後がなく絶対に勝たなければならない試合。日本は1-0でリードしていたがロスタイムの後半46分30秒、カザフのエースストライカー・ズバエフ1点を奪われて引き分けてしまった。この夜日本サッカー協会は加茂監督を解任。次の試合はビザの関係で新監督が間に合わないため、岡田コーチが代理監督として指揮をとることになった。続くウズベキスタン戦、日本は0−1で負けていたところを後半終了間際、呂比須がゴールを決めて何とか引き分け。この試合を見た日本サッカー協会首脳陣はチームの雰囲気が良いので、ということで新監督選びを保留。最終予選の最後まで岡田に監督を務めてくれるよう要請。岡田も最初は渋ったが前監督・加茂の説得もあって受けることにする。ここに国内のトップチームの監督をも経験したことのない異例の日本代表監督が誕生した。
このあとチームは更に苦戦を続けるが、11月1日ソウルでの韓国戦に岡田の絶妙な作戦が決まり、呂比須の3試合連続となるゴールなどで快勝。この試合で日本は呂比須・三浦の大事な2トップを累積警告で次試合出場停止のペナルティを受けることになるが、その代役として抜擢された中山が見事な活躍。11月8日のカザフスタン戦に勝って第三代表決定戦の出場資格を獲得した。
そして11月16日のイラン戦では1−2で負けていた所から三浦・中山の2トップを大胆にも城・呂比須とそつくり入れ替えるとこれが大当たりで城が同点ゴールを決めて延長戦へ。そして延長では更に岡野を投入。これがまた当たってこの岡野のVゴールによって日本は初挑戦以来50年目にして初めてワールドカップの出場資格を得ることができた。
ここで本来はご苦労様・お役御免の予定であったが、日本サッカー協会は更にこのまま2002年のワールドカップまで日本代表を率いて欲しいと岡田に要請した。しかし岡田はそれを固持し、結局1998年のワールドカップまで代表監督を務めることで合意した。
しかし突然監督になり、本試合までの期間はわずか半年。更にその途中をJリーグの試合で寸断されて、代表強化のための日程がなかなか取れなかった。対外試合を多く組んでくれるよう協会に要請するも協会が強い国との試合を取ることができず、他国の偵察要員などの充分なスタッフさえも確保できずに岡田は苦悩した。そして何とかワールドカップへの出場を果たしたものの、ヨーロッパや南米の列強とのレベルの差が埋めようもないことは明かであった。苦悩は言動や選手起用・試合運びの揺れにも直結した。
そして岡田は結局確率的にみて、僅かながら勝てる見込みの存在する方法を選択する。ワールドカップの直前になってからのシステム変更。3バックの採用であった。レベルの差が埋められないとすると通常に守っていては相手の攻撃を止められない。そこで従来より守備の人数を一人増やした訳である。結果的には攻撃要員が薄くなりただでさえ弱い得点能力を更に弱めることになった。しかし相手の攻撃を食い止めてさえいればわずかなカウンターの機会に得点を上げて奇跡的な勝利を得ることのできる可能性もある。それは非常に僅かの確率でしかないが、普通に守って大量点を食らって惨敗するよりは、less worse な方法であった。そしてそれは多くの人から非難をあびることではあったが。
しかし確率の低いことはやはり起きにくいことであった。ワールドカップの一時リーグの戦績は3戦全敗。得点も日本の得点王・中山がジャマイカ戦であげた1点のみであった。しかし優勝候補のアルゼンチンや、結果的に今大会で3位に輝いたクロアチア相手に1点差の試合は十分評価できるものであろう。岡田は日本サッカー協会の慰留を断って、契約通り7月いっぱいで日本代表監督を退いた。
現在(1998.8.19)彼は無職である。今月いっぱいはゆっくりと休養して9月から仕事探しをするとのこと。今度はJ2部あたりのチームの監督でもやりたいという意向のようである。それもよいであろう。J2部のチームを率いてそこを1部に昇格させ、4年後か8年後にはまた日本代表監督に帰ってきて欲しいような気がする。今度は理論のみでなく、多くの経験を重ねた名将として。
●岡田監督の全戦績
日程 | 試合趣旨 | 結果 | 対戦国 | 試合場所 | 得点者 |
1997.10.11 | W杯予選 | 1-1 | ウズベキスタン | タシケント | 呂比須 |
1997.10.26 | W杯予選 | 1-1 | アラブ首長国連邦 | 東京 | 呂比須 |
1997.11.01 | W杯予選 | 2-0 | 韓国 | ソウル | 名波,呂比須 |
1997.11.08 | W杯予選 | 5-1 | カザフスタン | 東京 | 秋田,中田,中山,井原,高木 |
1997.11.16 | W杯予選 | 3-2 | イラン | ジョホールバル | 中山,城,岡野 |
1998.02.15 | 親善試合 | 3-0 | オーストラリア | アデレード | 中田,平野,平野 |
1998.03.01 | Dynasty杯 | 2-1 | 韓国 | 横浜 | 中山,城 |
1998.03.04 | Dynasty杯 | 5-1 | 香港 | 横浜 | 中田,中田,増田,名波,呂比須 |
1998.03.07 | Dynasty杯 | 0-2 | 中国 | 東京 | |
1998.04.01 | 親善試合 | 1-2 | 韓国 | ソウル | 中山 |
1998.05.17 | Kirin杯 | 1-1 | パラグアイ | 東京 | 相馬 |
1998.05.24 | Kirin杯 | 0-0 | チェコ | 東京 | |
1998.05.31 | 親善試合 | 1-2 | メキシコ | ローザンヌ | 相馬 |
1998.06.03 | 親善試合 | 0-1 | ユーゴスラビア | ローザンヌ | |
1998.06.15 | W杯本戦 | 0-1 | アルゼンチン | トゥルーズ | |
1998.06.21 | W杯本戦 | 0-1 | クロアチア | ナント | |
1998.06.26 | W杯本戦 | 1-2 | ジャマイカ | リヨン | 中山 |