ダイエーの創業者・中内功は1922年8月2日、大阪府西成郡(現大阪市西成区)で薬屋さんの息子として生まれました。
旧制神戸三中から1941年に神戸高等商業(現兵庫県立大学)を卒業。招集されて南方に行き、フィリピン・ルソン島で悲惨な戦闘に参加しますが奇跡的に生還。戦後、焼け野原になった神戸で家業の薬屋さんを再興します。この大栄薬品が、ダイエーの出発点です。なお「栄」は医者だったお祖父さんの名前から取ったものでした。
1957年9月に大阪の千林駅前に「主婦の店ダイエー」をオープンさせ、スーパーマーケット事業に乗り出しました。高度経済成長の波に乗ってどんどん店舗を増やし、また全国各地の地場スーパーと提携して商業規模を拡大していきます。1970年には社名を「ダイエー」と変更。1975年にはコンビニチェーンのローソンの日本での展開の権利を取得してスーパーとはまた別のコンセプトでの商売を目指しました。1980年には三越を抜いて流通業界売上高1位に躍り出ました。
創業当初からのダイエーのコンセプトは明確で「より良い物をより安く」販売するということで、当時、生産者−荷主−仲買−問屋−仲買−小売という複雑な流れになっていた商品の流通を、小売であるダイエー自身が生産者から直接買い付けることで中間マージンを省いて安く売ることを可能にしたのでした。
その中で1960年代にダイエーが苦悩したのが家電製品のメーカーによる価格統制でした。この当時消費者の注目を最も集めていたのがカラーテレビでしたが、当時のメーカー品は10万円以上する高価なもので庶民の多くはまだ白黒テレビで我慢していました。そんな1970年、ダイエーはカラーテレビを自主製造して僅か5万円で売り出すという大胆な作戦を打ち出しました。この作戦は一部の新聞(メーカーの圧力で記事にしなかった新聞社があった)を除く多くの報道機関で大きく報道されると共に、消費者に大いに支持され、逆に圧力を掛けたメーカーが不買運動までされる騒ぎになります。また一部のメーカーはこの騒動を機にダイエーには一切商品を提供しないようになり、その対立は20年後まで尾を引きました。しかしこれは当時のダイエーが消費者から高く評価されていたことを象徴する出来事でした。
1980年代に入ると、高度経済成長の終了と共に経営が困難になってきた地方のスーパーを幾つも吸収していきます。その中でも大きな規模の吸収になったのは九州を拠点とするユニード(旧淵上)でした。ダイエーはまず九州方面の店舗を統括する九州ダイエーという子会社を作り、これをユニードと合併させて社名はユニードにしたものの、会社のマークはダイエーのマークに変えてしまいました。そして多くの人々の予想通り、この会社が後にユニードダイエーと改名、更にはダイエー本体に吸収されてユニードの吸収は完了しました。(ユニードの子会社にはこの時点で解散になった所も多く、大量の失業者が生まれた)
この頃からダイエーは微妙に路線が変わっていきます。1984年銀座にプランタン銀座をオープンさせ百貨店事業に乗り出し、1987年にはミシンメーカーのリッカーを吸収。1988年には南海ホークスを買収して福岡に移転させダイエーホークスとします。1992年にはリクルートを傘下に納めました。しかしこのまるで黄金時代のようにも見える1980年代から1990年代初頭に掛けてというのが、実はダイエーの崩壊の始まりの時期でもありました。
中内氏は1980年頃「借りれるお金が自分のお金」という名言(?)を述べています。お金は所有しているかどうかは関係ない。その人が動かすことのできるお金こそがその人のお金なのだという哲学です。実際高度経済成長期の頃はお金を借りても、その借りたお金を商売で動かすことにより、利子よりも遙かに大きな利益を上げることができましたし、ダイエーには銀行は幾らでもお金を貸してくれたので、1980年代半ば頃になるとダイエーが抱える借金は数兆円に及び、毎日の利払いが数億円という凄まじい状況になっていました。この頃から巷では「万一この会社が倒産したら誰も再建できないね」という説が囁かれるようになっていました。そしてそういう事を話す人の多くが「中内さんが元気なうちは大丈夫だろうけど」と付け加えていました。
ダイエーの商法、そして中内商法の限界はまさにここにあったともいえます。
(ダイエーの対極とも言えるのが吉野家の安部社長の手法で完全無借金主義なので、あれだけBSE騒動で売上が落ちていても本体はビクともしていない)
ダイエーが1980年代まで次々と店舗を増やしていくことができたのは、各地で店舗用の土地を買ってそこにスーパーを作れば土地の値段が上がり、その不動産資産を担保にして、お金を借りられて、次の店舗開拓の資金に出来たからです。
ところが1990年代のバブル崩壊により土地の値段が下がり始めるとこのサイクルが全く使えなくなると同時に、資産価値が目減りしてダイエーはやがて帳簿上の債務超過に陥ることになります。中身は儲かっていた当時とほとんど変わらないのに資産の評価額が急落したことで、数字上の財務体質が急速に悪化したのです。
そしてそうなると、毎日数億円という利払いが凄まじい負担になってきました。
そしてこの頃から実は、一部の消費者の中から「ダイエーの商品は品質が悪い癖に高い」という批判が出るようになってきていました。これは様々な規制緩和が進みダイエーよりもっと安く良い品を提供する企業が各地に出現したことによります。ダイエー自体も抵抗して「トポス」などのディスカウント店を作ったりしますが結局は仕入れルートを確保できないままやったため、単に利益を落とすだけのことになってしまいました。またダイエーが価格を安くするため仕入れ業者に過度な値引きを強要したり、人手の無償提供を要求したりしていたことで、ダイエーの「味方」は急速に減っていっていました。
そして苦しくなったダイエーは、リクルート、ローソン、ホークスなど次々と資産の切り売りで凌ぐ状態となり、最後は産業再生機構入りとなります。現在シビアな再建作業が実施されていますが、次々と全国で店舗が閉鎖されており、今のままで行くと再建が終わった時のダイエーはもう「大手スーパー」ではなくなっているのかも知れません。
なお中内氏は今回の経営危機に際してすべての役職と株式を手放し、ダイエーとは完全に切れてしまっていました。個人資産の供出なども求められていましたが、実際には本人の資産はほとんどが抵当に入っていたりして、供出する資産が実在しない状況であったようです・
2005年8月26日、脳梗塞で倒れ、神戸市内の病院にて9月19日死去。享年83歳。
最後の数年は無念だったと思いますが、それでも中内氏が1957年代から1990年頃まで残してきた足跡は、高く評価されるものだと思いますし、日本の商業史に長く名前が残される一人となるでしょう。
合掌。